《54》

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 家康は憮然とした表情で唐の兜を脇に置き、親指の爪を噛み始めた。ぱちり、という音が間に響く。 「では、黙って耐えろというのか、忠次」 「耐えるのは得意だろう。忍耐を繰り返し、御館様は今日までやってきたのだからな」  家康と忠次のやり取りはどこか父子のようだった。2国を領有する大名になった今でも家康は酒井忠次を慕っているような所がある。 「盟約があるにも関わらず、刺客を差し向けてきた。これは赦すべきではない」 「まあ、抗議の文書くらいは送ってもよいかもしれんな。すぐ康政に書かせよう」  いまや、徳川家で文書作成といえば榊原康政となっている。誰よりも字が美しく、文章が上手いのだ。  陽が傾き、暗くなってきた。家康の近習が間に入ってきて、燭台に灯を入れた。 「家族を、一旦三河に帰そうと思っています」 忠勝は言った。 「そうか」 家康が頷きながら言って、爪を噛んだ。 「いくさが無い時くらい、お前にゆっくりしてほしいのだが、仕方ないな。今川の残党、武田の不穏な動き。遠江は女子供を住まわせるにはまだまだ危険が多い」  この2、3年、家族と過ごした日数を忠勝は内心で数えた。すぐに数えきれてしまい、忠勝は自嘲の笑みを浮かべた。 「お前には、特に苦労をかけているという気がする」 家康が言った。燭台の灯に照らされ揺れるその顔は憐憫の表情になっている。 「日の本に200年の泰平を造る。御館様のこの夢を聞いた時、俺の心は奮えました。全てが夢に繋がっているのです。だから、どんな事も苦労ではありません」  家康は眼を閉じた。間に沈黙が流れる。 「命だけは大切にしろよ、忠勝」 「はい、御館様」  本丸を出、二の丸に下りた。浜松で忠勝にあてがわれた邸は岡崎に居た頃の物より大きなものだった。 隣は叔父、忠真の邸になっている。他に、長屋が2つある。これは黒疾風と他の本多隊兵卒の兵舎になっているのだ。 他の浜松城郭区にも兵舎は多く設置されている。  兵農分離。この政策が徳川家では強く推し進められていた。兵農分離が更に強い軍を造るというのが皆の一致した考え方だった。
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