《55》

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 『天下泰平』と書された軍配が翻った。勝頼は見るともなしに軍配を見上げた。勢いをつけた軍配が顔に迫る。勝頼の中に避けようという気持ちはなかった。 受けてやろう、父の想いを。それで信玄が忘れてしまった何かを取り戻せばいいのだ。  頬に衝撃が来た。とても端座などしておれず、勝頼は板敷きの上を転がった。 勝頼は素早く起き上がり、再び端座の姿勢で信玄に向き直った。口内には錆びた味が拡がっている。もう一度、軍配の衝撃が顔にきた。今度は転がらずに堪えた。信玄の顔を見た。信玄の表情に怒りの色は無かった。瞳に哀しげな光が見えるだけである。 望月千代女が勝頼の傍に駆け寄ろうとした。勝頼は右手を向け、千代女を制した。信玄が呻くように息を吐いた。 「御館様、そのあたりで」 馬場信春が言った。他に山県昌景、高坂昌信、小杉左近が壁際に並んで座っている。  信玄が懐から書状を取り出し、開いた。遠江から届いた抗議の文書である。 先日、勝頼は独断で遠江に望月千代女初め、歩き巫女部隊を送り込んだ。目的は徳川の主要武士暗殺である。  この1年ほど、京の足利将軍家から書簡が届き続けている。上洛し、織田信長を討て、という内容の書簡だった。  これを信玄はのらりくらりとかわし、一向に腰を上げようとしない。織田との同盟があった。それよりもなによりも、年齢からくる躊躇いだ、と勝頼は思っていた。 信玄は齢51になる。周囲に敵を増やすのではなく、甲斐、信濃の内政をしっかりと固め、自分に代譲りをしようと考えているのかもしれない。  
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