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久しぶりの三河だった。やはり、どこに居るよりも三河がほっとできる。それはここに家があり、家族がいるからだろう。
何日か振りの非番、忠勝はどこにも行かず、家にいた。美濃での駐屯、越前でのいくさ、遠江の巡察と暫くは働きづめだった。具足を解き、幾日ぶりかに着た直垂れは実に心地が好かった。
顎の下で鋏が音を立てている。
「どうかな、唹久姉さん」
鋏を右手に持った乙女が忠勝の顎髭を左手でひと撫でし、言った。
「もう少し、短く切り揃えたほうが見栄えが良いんじゃない」
両手の人差し指と親指で作った四角から忠勝の顔を覗き、片目を瞑って唹久が言う。
「わかった」
乙女が言って、再び忠勝の顎髭に鋏を立てた。
畳に置かれた和紙には髭の切り粕が山になっている。
伸び放題になっていた忠勝の髭を切り揃えようと言い出したのは唹久だった。唹久は忠勝の見た目を小綺麗にしておく事に強いこだわりを持っている。
だから、唹久が嫁に来てから忠勝の着物の数は増えたし、乙女やすみれも着る物の眼が肥えた。
乙女が真剣な表情で鋏を動かし続ける。唹久が角度を変えて、忠勝の顎髭を何度も見てきた。
三河の飛将と呼ばれ、誰からも畏怖される自分がまるで人形である。だが、忠勝はこの二人の妻には逆らえず、またいいように扱われる事に悪い気はしていなかった。
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