《50》

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「家康を捨てて、わしに仕えぬか、忠勝」 信長が言った。 「答えがわかっていて聞かれますか」 「そうだ、わかっている。それでも訊きたくなるほど、お前は見事なのだ」  信長の言葉に忠勝はそれ以上何も応えなかった。 足元では秀吉がまだ忠勝を見上げている。 「わしも、まだ諦めておらんからの」 秀吉が言った。秀吉の眼は先ほどよりもきらびやかに輝いている。 「いつかお前を手に入れるからの、忠勝。家康殿よ、宣言しておきますぞ。本多忠勝はいつの日か、この秀吉が頂く」 「大変だな」 忠勝の耳に顔を寄せてきて、康政が小声言った。 「俺の進むべき道はただひとつ」 蜻蛉切を天高く掲げ、忠勝は声高らかに言った。家康が忠勝に振り返り、力強く頷いた。  織田徳川両軍は夕刻に解散となった。浅井軍は小谷城にまだ健在である。小谷城に次ぐ近江の大城、横山城には秀吉が城代として暫く入り、統治することになった。 三河への帰路、忠勝は忠真と二人で八島に寄った。かの地に有名な湯場がある。叔父甥で湯につかり、いくさの疲れを解そうという話になったのだ。  暫くぶりに忠勝は具足を解いた。解放感が全身を包む。空を飛べるのではないか、と思うほど身が軽かった。 湯に浸かると、忠勝の全身をもの凄い速度で血が巡った。夜である。湯気と重ねて見る月には、なんともいえぬ情緒があった。 「お前はどんどん大きくなっていくな、忠勝」 両手ですくった湯を顔にかけながら忠真が言った。 「ついこないだまで、ほんの子供であったのにな」 「叔父上が作ってくれた素地があるからですよ」 「23になったのだったな」 「はい」 「初陣から、もう10年経ったか」 「長かったという気もしますし、あっという間であったという気もします」  夜空でいくつかの星が流れた。こうして忠真とゆっくり語り合うのは久しぶりだという気がする。 「ちょっと立ってみろ、忠勝」  忠勝は湯から立ち上がった。冷たい夜風が忠勝の背を撫でる。湯で火照った体には心地の好い風だった。 「お前は10年、いくさに出てまだひとつの傷も負っていない。しかも、あれだけ前に出てだ。これはかなり凄いことだぞ、忠勝」
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