第六章 兆し 〈2000年5月〉

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 翌日俺は、真莉絵のマンションからドラマの顔合わせに出かけた。部屋がバレないようにロビーで待っていた俺を、小坂さんは何も言わず車に乗せた。一言あるだろうと構えていたのに肩透かしを食らった。 「なんでコメントなし?」 「顔がしっかり仕事モードになってますから。もし緩み切ってたらガツンと言うつもりでしたけどね」 「当たり前じゃん、何年やってると思ってるの?ほぼ年齢イコール芸歴なんだから」 「一応報告しておきますが、昨晩、お父様から咲也はどこに入り浸ってるんだと聞かれました」  なんだって?まさかバレたのか?でも小坂さんにも真莉絵の名前すら話していない。音楽関係の友達とだけ伝えてある。どうやら女性であると思っているらしいが肯定したことはないから確証はないはずだ。おれはつとめて冷静を装って聞いた。 「それで?なんて答えたの?」  小坂さんは俺の駆け引きなどお見通しらしく、口の端でニヤリと笑った。 「ライブで知り合ったお友達と言っておきました。そうですよね?」 「そうだよ。でも小坂さんは疑ってるでしょ?」 「まあ、問題起こさないでくれるなら、今は、黙ってますよ」  今は、ねえ。やっぱり食えないなあ。  思わずため息が出る。小坂さんは優秀なマネージャーだ。子供の頃からついてもらっているせいで、俺のメンタルをコントロールするスキルは完璧だ。  追求せずにいてくれているのは、俺にとってまさに今が正念場で、余計な精神的負担を強いることはマイナスでしかないと小坂さんは判断したんだ。だかそれもいつまで放っておいてくれるかはわからない。なんせうちの家族とは密に繋がっているからな。  俺はそのまま黙って会話を終わらせ、目を閉じた。このドラマが、おそらくこれからの俳優人生を左右する分岐点になる。だが不思議と少しも怖いと思わなかった。    車の振動に身を任せると、その単調な波に意識が同調し外部の音が消えていく。真莉絵で溢れていた脳内がリセットされクリアになる。途端に、膨大なセリフ群が高速で打ち出され、クライマックスシーンが映像となって見え始めた。  俺は、その瞬間、一気に神野樹に体を明け渡した。
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