第六章 兆し 〈2000年5月〉

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 少し肌寒くなってきたかな?長袖のトレーナーでは暑いと感じた日中に比べ、海風を受けるテラスは体感温度が低い。右隣に座る真莉絵の両手はぎゅっと膝を掴んでいた。二人席の椅子は丸テーブルを囲むように外に向けて並んでいて日没を楽しむ仕様になっていた。  椅子に備え付けの膝掛けをそっとかけてやると、ありがとうと言いながら、彼女はやっと俺に目を向けた。何かに夢中になると全神経を注いでしまう真莉絵がとても愛しかった。  だって、その笑顔が俺に向けられる時も全力だから。真莉絵の綻ぶ顔は沈む太陽よりもキラキラと輝いて眩しくて、いつまでも見ていたいと思ったんだ。  太陽がすっかり海の中に沈んだ頃、俺たちのディナーは始まった。店の名前を冠したパスタは湘南シラスと鎌倉野菜をたっぷりと使ったペペロンチーノで、ニンニクがかなり効いているのに重さはなく、爽やかなレモンの香りがした。サラダも凝っていて見た目も華やかだった。  真莉絵は、しばし来た料理をじっと見つめ固まった。何かこの料理にも触発されるものがあったみたいだ。真莉絵はきっと周りにある全てのものから常に音を拾っている。ほとんど無自覚なんだろうな。もし今、抱きしめたら、彼女の体の中に渦巻く旋律が聞こえるのだろうか。  真莉絵はようやくフォークを動かし、口に入れると、サクちゃんも早く食べてすごく美味しいよと言う。  うなづいて、同じ一皿をつつく。舞茸とエビの素揚げにさっと火を通した根菜と、新鮮で色鮮やかな数種類の葉野菜にオニオン系のドレッシングが絡み、本当に美味しい。赤紫のビーツが暮れなずむ空の中、吊られたランタンの柔らかな光に照らされ宝石のように輝いていた。    幸せそうに食べる真莉絵を見ながら、最高のデートだったなと思う。明日から三週間、俺はドラマに集中する。だから、夜が明けるまでは真莉絵のことだけでいっぱいにしよう。
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