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プロローグ 〈2017年8月〉
どうして今日に限って遅くなってしまったのだろう。
人気のない深夜の病院を足早に歩いていると、吹き抜けのロビーの高さのせいか、自分の足音が少し遅れて反響する。効果音をつけているようなわざとらしさに思わず口元が緩む。苛立った自分に落ち着けと言われているようだった。
エレベーターに乗りIDカードをかざすと、最上階のボタンが押せるようになる。いわゆるVIPフロアだ。マスコミ会見後に咲妃ちゃんを守るために部屋を移したのだが、深夜でも面会できるからありがたい。
世間の騒動はまだ収まる気配もない。そりゃそうだろう。自分で言うのもおこがましいが人気絶頂の俳優、それも32歳の俺に突然16歳の娘がいたと発表したのだから、その衝撃は半端ではなかった。
モデルの仕事をしていた咲妃ちゃんは、撮影中の強風で照明が倒れ、重傷を負ったのだが、その怪我がきっかけで俺たちは親子であることが分かった。運命だったんだろうと、今は思える。
夏休みも残り少なくなった咲妃ちゃんは、地元静岡に帰ってリハビリすることになり、明日退院するという。
養父である椎名さんは気を使ってくれているのか、俺が咲妃ちゃんに面会に来る時間はいないことが多い。特に今夜は俺のために早めに帰ってくれたというのに申し訳なかった。
16年、互いを知ることなく暮らしていた親子が、その空白を数日で埋めることは到底できなかったが、俺にとってこの一週間は、例えようもないほどの至福の時間だった。
そんな最後の夜、長引いた仕事を終えようやく病室につくと、彼女はすでに眠ってしまっていた。あたりまえだ、もう零時を回っている。
起こさぬようにそっとベット脇に腰を下ろすと、穏やかな寝息が聞こえてきた。もう傷の痛みもほぼないと言っていたな。
本当に良かった。あの日この病院に偶然居合わせた奇跡に感謝したい。
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