道標を束ねよう 君に届くように

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道標を束ねよう 君に届くように

「またその本読んでるの?」  アパートに戻った直也(なおや)は、ベッドに寝転んでいたのぞみに声を掛けた。 「いいでしょ別に。それより、ただいまくらい言ったら?」 「母さんみたいなこと言うなよな」  二人が付き合い初めて一年ほど。そろそろお互いの家に挨拶を、という話も出ていた。 「なんだか落ち着くのよね、この本を読んでると。この世界観を、私はよく知ってる気がするんだ。ねぇ、直也さん。この吉岡智秋(よしおかともあき)さんってどんな人なの?」 「どこにでもいる普通の人だよ。でも、そう言われると、君と少し雰囲気が似てるかもしれないな」 「へぇ」  ころりと寝返りをうって、のぞみは仰向けになった。ぐっと両手を伸ばして本を高く掲げる。 『名も知らぬ君へ 吉岡智秋』  直也が担当編集者として携わったその本は、爆発的なヒットとまではいかないが、口コミでじわじわと売上を伸ばしていた。少し前にも新聞の書評欄で好意的に取り上げられたし、取材の申し込みも何件か来ている。  当の本人はどこかのほほんとしていて「まだ自分が本を出したっていう実感がなくて」と、苦笑いをしていた。 「そうだ。この本には裏話があるんだ」 「裏話?」 「そう、実はね……」 『名も知らぬ、鳩のような君へ。僕らは賭けに勝てるだろうか』  本の一ページ目に、この一文を必ず入れてほしいと吉岡は強く望んだ。  吉岡が名前も知らない「鳩のような君」とした「賭け」。  それは、吉岡の作ったこの物語がどんなかたちであれ彼女の元に届くかどうか。 「届いたら彼女の勝ち。届かなかったら彼女の負け。もし届いたら彼女が何でも言うこときいてくれるらしいよ」 「ふぅん。この吉岡さんってきっとその人のこと好きなのね」 「名前も知らないのに?」  直也がそう言うと、のぞみはチッチッと舌を鳴らしながら人差し指を左右に揺らした。 「恋に名前も時間も関係ないの、編集者さん。読んでて分かんなかった? 文章に愛情が詰まってるっていうか――そう、ラブレターみたいなの、この本」  深い愛情と優しさを感じる物語。この前の書評でもそう書かれていたな、と直也は思い出す。 「届くといいわね、その人に」 「君はホントに優しいね」  そう言って直也が抱きしめると、のぞみはくすぐったそうに笑い声を漏らした。
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