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あれからの晴は光輝の残した『希望』という言葉にしがみつく事でしか生きてこれなかった。でなければ36才になる現在、カフェのオーナーと言う晴の姿はここになかった。そして光輝とは音信不通になっていた。さすがに12年経てば光輝への未練もなかったが新しい恋を始めることも出来ないでいた。
晴にもいろいろありすぎた。勤めていた銀行の退職。製菓の専門学校の入学。ゲイのカミングアウト。親からの勘当。カフェ『ランザ』のオープン。考えたらめまぐるしい20代だった。ようやく落ち着いた毎日が過ごせているなと感じるようになったのはここ数年だった。
ベットから起き上がった晴は今日も1日を始めるべく準備を始める。睦月の触れた感触を思いだし赤面しながら……。
カフェのお客の波が引いた時に小田切類が晴のいるカウンターに肘を付いて話しかけて来た。
このお店は晴が大学の頃からバイトをしていたお店である。その時にお菓子との出会いがなければ会社は辞めずに擦り切れたボロボロの人生を歩んでいたと思う。製菓の専門学校に通っている時、ここのお店のケーキの味が恋しくなった晴はこのお店を訪れた。ポロッとここで働きたいという言葉を拾い上げて、オーナーは何も深いことは聞かずに雇ってくれた。お店の経営の事、コーヒーの入れ方、様々な事をここで学ばせてもらった。今ではコーヒーは前のオーナーからお墨付きをもらっいるはずなのに、今日は失敗してしまった事が何度かあった。
「ねぇ、ねぇ、晴ちゃん、今日はどうしちゃったの?」
ここでバイトしてくれている2人のうち1人の類に突っ込まれるほど今日の晴はおかしかった。
「晴ちゃんじゃなくて、マスターでしょ?」
「いいじゃん、いいじゃん。俺と晴ちゃんの仲じゃん」
類との出会いは隆二の店『ジョーベ』だった。初めはあまりにもフレンドリー過ぎる類に困惑した晴だったが、懐いてくれる姿にいつの間にかほだされてしまった。気が付いたらバイトにまで来てもらうようになっていた。接客の上手い類は今ではいなくてはならない存在だった。もう1人のバイトの月嶋雫とも時間帯が合わないなりに親しくしているようだった。
「ねぇ、なんかあったでしょ?」
「っ、何もないよ」
「うっそだ~」
「いいから、ほら手を動かして」
「はい、はい」
晴は冷静を装いながらいつまでも睦月の感触を思い出す事を繰り返していた。
(久しぶりにしたからって、引きずり過ぎだろ、僕~。でも本当に凄かったなぁ、あんなに感じたのは初めてかもしれない)
ほんのり頬を赤くしながら仕事をしている晴は、いつもより表情が明るく顔色が良かった。その顔は良い出来事があったのを物語っていた。
なんとか一日の仕事を終えて部屋に戻るといつもと違う事が待っていた。
(アレ、珍しい携帯にメールが来てる)
仕事が終わり部屋にほったらかしにしている携帯に着信のランプが付いていることに気が付いた晴は手に取って確認した。─ドキっ─
ーまた会えないか?
メールは睦月からの短い文面だった。それは晴の心を揺さぶるには十分だった。
『会いたい』晴はその文字を入力しては消すを何度も繰り返していた。そして2度、3度とそんな事を繰り返していたそんな時、誤って睦月に送信されてしまっていた。
「あ、あ、ちょっと、待って!」
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