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呼びかけると、猫は一瞬立ちどまり、フンと言ってまた歩き始めた。プルリングを引きながら、晴久、と小さく呼びかける。こんな風に、ひとりで座っているときに思いだすのだ。日常のはざまで、どうしようもなく。
半分以上残っている缶を手に立ちあがる。見あげると、星がひとつ、ふたつ、弱い光をはなっていた。
***
晴久は、高いところが好きだった。
一回生の春。快晴で東風の吹く日に、広い場所に行きたくなって、屋上へ行った。
講義室が連なる棟の階段を登り、立ち入り禁止の札を乗り越えてドアを開けると、先客がいた。眠たげな午後だった。どこかで、テニスボールの打たれる音が聞こえた。
「こんにちは」
後ろ姿にむけて挨拶した。風が体を吹き抜けていって、そうすることはとても自然に思えた。
彼はゆっくりふりむいて、「こんにちは」と返した。逆光で、よく見えない。
屋上の隅には、空き缶や煙草の吸殻が捨ててあった。フェンスのむこうに飛行機雲の白線。テニスボールがもう一度打たれて鳴り、男の子の歓声がした。
私は名前を尋ねた。
耳元で、風が鳴っていた。
「晴れて久しいって書いて、晴久」
彼は言った。午後の日が差す屋上はまぶしかった。
晴久に出会ってから、日常は少しずつ、彼の方へむかっていった。ふたりとも大学に入ったばかりで右も左も分からなかったし、どこかで話し相手を求めていた。
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