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晴久の誕生日は五月だった。桜が散って、ゴールデンウィークが過ぎて、梅雨が始まる前のカラッとした季節。緑に陽が反射して、まぶしくて、思わず目を細めてしまうような。
ある日の夕方、並んで歩いているとき、
「そういえば」と彼は言った。
そういえば、俺、今日誕生日だ、と。ほとんど自分でも忘れていて、今突然思いだしたように。
私は一瞬言葉につまって、一拍おいてから、「おめでとう」と言った。
「じゃあ、お酒でも飲もうか」
そのままふたりで近くの居酒屋に行った。晴久がビールに口をつけたのを確かめてから、私は不意に、
「ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し」
詩の冒頭を口ずさんだ。
心に浮かぶまま、つぎつぎとこぼれてゆく。
とまらなかった。
ひきとめておきたいと、思ったのかもしれない。
いずれなくしてしまう大切なものを。
時間を。今目の前にある、もののすべてを。
ひととおり暗唱すると、晴久は私の唐突さにびっくりしながら、「何それ」と尋ねた。
「荻原朔太郎の『旅上』っていう詩」
「好きなの?」
晴久のジョッキは、キンキンに冷えていた。表面をなぜると、氷が指先にひっつく。指の跡をつけるのが、昔から好きだった。小さい頃、車の窓が暖房で曇るたびに落書きした。書くところがなくなってしまうまで。
「しののめっていう言葉が出てきて、好き」
「しののめ?」
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