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第二章 野球バカ
別に警視にまで登りつめて〝署長を目指す〟なんて高尚な志しがあったわけではない。
ある時期、ツキに恵まれた。
生活環境、いや「人」に恵まれた、と言うべきか。
今では死語とも言われる〝青春〟と呼ばれる時期、俺のまわりには、すごい奴らがいた。
大沢秋時、杉村裕海、水野薫、西崎透也。
奴らに負けまいとする競争心が、俺のモチベーションだった。
奴らの影響を受けた高いモチベーションが、そのまま人々の安寧、街の治安維持、社会への貢献を思う正義感を育み、不正を許せない窮屈な気質を宿らせた。
俺は物心がつく前から、大学4年までの二十年、野球一色の生活を送った。
親父が正真正銘の野球バカだった。
甲子園を目指し、プロ野球選手を目指し、どっちも遠く及ばず、高校卒業後に大手運送会社の社会人野球でそこそこ活躍した。
引退後、そのままコーチ、監督と野球漬けの人生を送った男だった。
自分の果たせなかった夢を息子に押し付ける、典型的な昭和の頑固親父。
俺は、幼少期から自分の意思とは関係なく、当たり前のように毎日バットを振り、近所の公園でノックを浴びる生活を送っていた。
俺の生まれ育った愛知県豊市は、野球の盛んな町だった。
元々、愛知県には昔から野球好きが多い。
Jリーグが発足し、名古屋にプロサッカーチームが誕生してから、サッカー人気が一気に高まったが、それもやはり名古屋や尾張地区、西三河地区が中心だ。
愛知県の東端、東三河地区の野球熱は、当時も昭和の時代と変わらない根強さがあった。
そんな野球熱の高い小さな町で、親父のシゴキに耐え続けて中学生になった俺も、市内では注目される程度の選手にはなっていた。
中学三年の時には、エースで四番、そしてキャプテン。
俺中心のチームは、県大会のベスト4まで勝ち上がった。
親父は、すっかり舞い上がっていた。
「南洋北校へ行け!」
親父は、俺の進学先を有無を言わさぬ口調で決めた。
静岡の高校に行かせたい理由は明白だった。
~ 甲子園までの難関度 ~
高校野球、地区予選参加校数。
愛知、187校。
静岡、118校。
倍率だけで見ても静岡の方が、甲子園までの難関度は低い。
しかも愛知には、名古屋に全国を制覇したような強豪校がいくつもある。
親父の夢。
甲子園、そしてドラフト指名 ・・・プロ野球選手。
俺はさして疑問にも思わず、抵抗もせず、南洋北高校へ越境入学する事にした。
そしてこの無抵抗な選択が、おそらく俺の生涯の最も大きな分岐点だったのだろう。
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