第二章 野球バカ

1/18
前へ
/433ページ
次へ

第二章 野球バカ

   別に警視にまで登りつめて〝署長を目指す〟なんて高尚な志しがあったわけではない。  ある時期、ツキに恵まれた。  生活環境、いや「人」に恵まれた、と言うべきか。  今では死語とも言われる〝青春〟と呼ばれる時期、俺のまわりには、すごい奴らがいた。  大沢秋時、杉村裕海、水野薫、西崎透也。    奴らに負けまいとする競争心が、俺のモチベーションだった。  奴らの影響を受けた高いモチベーションが、そのまま人々の安寧、街の治安維持、社会への貢献を思う正義感を育み、不正を許せない窮屈な気質を宿らせた。    俺は物心がつく前から、大学4年までの二十年、野球一色の生活を送った。    親父が正真正銘の野球バカだった。  甲子園を目指し、プロ野球選手を目指し、どっちも遠く及ばず、高校卒業後に大手運送会社の社会人野球でそこそこ活躍した。  引退後、そのままコーチ、監督と野球漬けの人生を送った男だった。  自分の果たせなかった夢を息子に押し付ける、典型的な昭和の頑固親父。  俺は、幼少期から自分の意思とは関係なく、当たり前のように毎日バットを振り、近所の公園でノックを浴びる生活を送っていた。  俺の生まれ育った愛知県豊市は、野球の盛んな町だった。  元々、愛知県には昔から野球好きが多い。    Jリーグが発足し、名古屋にプロサッカーチームが誕生してから、サッカー人気が一気に高まったが、それもやはり名古屋や尾張地区、西三河地区が中心だ。  愛知県の東端、東三河地区の野球熱は、当時も昭和の時代と変わらない根強さがあった。  そんな野球熱の高い小さな町で、親父のシゴキに耐え続けて中学生になった俺も、市内では注目される程度の選手にはなっていた。    中学三年の時には、エースで四番、そしてキャプテン。  俺中心のチームは、県大会のベスト4まで勝ち上がった。  親父は、すっかり舞い上がっていた。 「南洋北校へ行け!」    親父は、俺の進学先を有無を言わさぬ口調で決めた。  静岡の高校に行かせたい理由は明白だった。  ~ 甲子園までの難関度 ~  高校野球、地区予選参加校数。  愛知、187校。  静岡、118校。  倍率だけで見ても静岡の方が、甲子園までの難関度は低い。  しかも愛知には、名古屋に全国を制覇したような強豪校がいくつもある。    親父の夢。  甲子園、そしてドラフト指名 ・・・プロ野球選手。    俺はさして疑問にも思わず、抵抗もせず、南洋北高校へ越境入学する事にした。    そしてこの無抵抗な選択が、おそらく俺の生涯の最も大きな分岐点だったのだろう。
/433ページ

最初のコメントを投稿しよう!

153人が本棚に入れています
本棚に追加