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「大したことなくて安心したけど、なんで控え室で転んだりしたの? 床とかに問題あるんだったら、また誰か転んだりしたら大変だから直さないといけないからさ」
おれは、ことばにつまった。パートのおばさんたちから親しみをこめて「寝起きの犬」と呼ばれている山本主任は、その風貌に違わない温厚な性格に、仕事上ずいぶん助けられている。そんな彼にも、転んだ原因を正直に話すことはためらわれた。ましてや、母や兄には絶対知られたくなかった。
「ああ、大丈夫大丈夫。無理にしゃべらなくていいから」
山本主任は、右手をひらひら振った。ことばを探して苦悶する様子を痛みをこらえていると勘違いしてくれたらしい。
「柚山さんだったっけ? 一緒にいたの。状況は彼女に聞いてみるよ。明日は、とりあえず休んでいいから。じゃあ、お大事にね」
母と兄が、山本主任を追いかけて出て行くと、病室は急に静かになった。少し気持ちが落ち着き、初めて室内を見回す余裕ができた。横も向かいもカーテンで仕切られていてはっきりとしないが、おそらく四人部屋だろう。気配がないので、他に患者がいるのかいないのかわからない。エレベータを待っている山本主任にしつこくお礼のことばを繰り返す母と兄の声に混じって、ベッドなのか医療器具なのかキャスターが廊下をこする音が近づいては遠ざかる。
柚山さん。その名を耳にして落ち着きかけた気持ちにまた暗雲がたちこめる。おれがこうして病院に担ぎこまれる原因を作った張本人が他ならぬ彼女、柚山京子だった。
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