海へ昇る

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警報の音が特段大きくなってきている。 銘々が自分の過去と同じ大きさの酸素ボンベを背負って、あちらこちらとよろめき走っていた。 思い出が足元に絡まる。 騒然とする地球の上で、私は、海を見上げていた。 地球が溶け始めていることが分かったのは数十年前のことで、私はその時学生であった。まるで南極の氷のように、のうのうと指を咥えて経過を見ていたら、人類は最後の小さな氷の上に取り残されていたのだ。そして、動植物が少しずつ減っていった。山岳地帯が人の住めぬ荒野になった。酸素ボンベが個人に支給された。人が死んだ。 「地球の大気が徐々に宇宙空間へと漂い出ているのです」 専門家はマスクの中で汗をかいていた。いずれその専門家も見なくなり、気がつけばテレビ番組がワイドショーばかりに変わっていった。皆皆がお互いに小汚く罪を擦り付け合い、残った酸素ボンベの消費を早めてゆく。 私は、中身の底が見えるボンベを背負ったまま、只この場に突っ立っている。そして、突っ立ったまま、「ああこのマスクはなんて息苦しいのだろう」などと考えている。 足元には私の妻が、私の棒のようになっている足にすがり付いて眠っている。つい先日結婚三十年目を迎えたばかりだ。握っている細い指が再び柔らかに動くことは、私が生きている間に見ることはもう出来ないと思う。そしてそれを理解した時に、ふとした寂しさを感じた。もう少しで私も彼女のように美しいまま死ねるのだと思うと、この星と共に恋をし、最期を迎え、宇宙で妻と永遠に漂える事が本当の幸せのように思えた。 警報の音が特段大きくなってきている。 私は、もう人々がどこかに行ってしまったこの場所で、じっと空を見ていた。空は徐々に宇宙の色へと顔色を変えて、無数の星が疎らに散らばっているのが見える。 それを見て、「宇宙とはほんとうは海なのかもしれない」と思った。 美しい地球は美しい海へと溶けてしまった。 人類も、植物も、動物も、美しいまま海の藻屑となるのである。 私はマスクを外し、冷たさで悴んだ手のひらを海の底へ伸ばしながら空気を吸った。
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