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不意をつかれる形になり、佳代子は緊張を解く暇がなかった。
「あ、うん。こっちこそ、ごめんね。これ、教授から」
教授から頼まれた身の佳代子に謝る理由はないのだが、早口でそう詫びると、クリアファイルを手渡した。
「ありがとう。助かったよ」
嫌味でない、さわやかな笑顔。佳也子の視線は、落ち着きなく前方を小刻みにさまよっていた。
呼び出した要件は、これで終わり。たが、まだ佳代子の手には紙袋があり、むろん拓哉も存在に気付いている。
佳代子は、ジッと立ったまま何も言えずにいた。
モテる拓哉だから、やはり薄々分かってはいるだろう。
わずかな時間の沈黙だが、なかなかチョコを渡す勇気の出ない佳代子と、自分から訊ねたり催促するわけにもいかない拓哉の間に、妙な間が生まれる。
廊下には二人しかいない。
建物の外から時おり小さく聞こえてくる喧噪が、遠い。
「……じゃあ、また明日のゼミで」
不自然な沈黙の後、拓哉は軽く右手を上げると、踵を返して廊下の反対側へ向かおうとする。
佳代子の顔が一瞬こわばる。背中が少しずつ離れていく。
「ごめん、ちょっと待って!」
廊下に、やや大きな佳代子の声が響く。振り向いた拓哉と、佳代子が驚いた顔を同時にする。
当然だった。声の主は、佳代子の声を真似した俺だからだ。
そんなことを知らない拓哉は、急に呼び止められたので、目を丸くして佳代子を見ている。
佳代子の口が開く。
「あの、えっと、……よかったら、これ受け取って!」
紙袋を握ったままの両腕が、拓哉の方に向かって伸びる。
「何て言うか、ほら、バレンタインだし、資料だけ手渡して手ぶらでっていうのもおかしいから、何かないかなって思って」
完全に、しどろもどろだが、なんとか自分で言って手渡せた。
「嬉しいな。ありがとう」
口角があがっている。愛想笑いなどではない、本当に自然な笑みだった。
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