一章/学校にて

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一章/学校にて

生徒指導室に呼び出された彼女は、利口気に背筋を伸ばして俺の前に座っている。だがその表情に精悍さは無く、ひたすら目線を机の木目に注いでいた。 「美空、またどこか怪我したのか」 ため息と共に指摘すれば、彼女の冷めた目が俺を一瞥した。しかし間を置かず、目線は机に戻される。 「……いえ。気のせいですよ」 水を打ったように静かな部屋に、か細いその声だけが頼りなく響く。 「……授業前に教材を運ぶ時、どうして左手を使わなかった?何故途中でノートをとるのを止めた?左利きだろう?……見せてくれないか」 立ち上がり彼女の隣を陣取ると、膝に置かれた彼女の右手だけが拳を作り白んだ。左手は未だ、力なく垂れ下がっている。恐らく力みたくないのだろう。 「……いやです」 その声は異様な程澄んでいて、意志の硬さを示している。彼女は大人びた微笑みを顔に貼り付け、ゆるりと俺を見た。 「潮田先生。私、大丈夫だよ」 「……」 あまりの痛ましさに、眉間に皺が寄る。その儚い笑顔に、彼女が消えてしまうのではと焦燥を感じた。思わず、そのあどけない頭をゆっくり撫でた。 「……凛」 ……今だけ、少しだけ。彼女を生徒ではなく、一人の女性として、大切にさせてほしい。だから俺は彼女と約束した、魔法の言葉を使う。彼女を苗字ではなく名前で呼んだ時だけ、俺達は恋人同士だからだ。 彼女は少し目を見開いて、それから年相応の可愛らしい苦笑いを咲かせた。 「……何?湊さん」 「また母親に暴力をふるわれたのか」 「……そうだね、でも慣れてるから」 「そういう問題じゃないだろう」 彼女の肩を掴んで呼びかけても、その笑みが崩れる事は無い。 「……私、……お母さんの事は諦めてるの。何か行動を起こしてあの人のヒステリーを触発するより、このままずっと耐えていたい。誰にも、私がされてきた事を知ってほしくない」 「……」 「……まだ大丈夫だから、 」 見つめ返してくる彼女の瞳は、凪の海の様だった。しんとした沈黙が、冷えた生徒指導室を満たす。暮れた部屋のほの暗さは、彼女の沈んだ虹彩に酷く馴染む。そっと視線が外され、彼女の頭が垂れた。 ――覚悟を決める事にした。ずっと逃げてきた結論だった。しかし俺には、もう時間が無いから。彼女に恋をした、責任をとろうと思った。攫ってしまおう、と。
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