(二)

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(二)

 杜の空に半月が掛かっているも、雲の流れが迅く月影はおぼろであった。  身ぬちにとどまる淫蕩な熱を追いやり、半太夫(はんだゆう)は杜闇を駆ける。  桑染めの小袖に、鉄色の裁着袴。武家奉公人という風体だが、疾風のごとき走りは鍛えこまれた忍びのものだ。 (兵庫さま)  小屋を出てからいくらも経っていないことは、躯に含まされた精のぬめり具合で察することができる。交合の最中に姿をけすということは、陰の襲来—— (お独りで狩に……)  法悦の波間で意識を手放した己のていたらくが赦せぬ。  しかし唇を噛みつつも、もうだいぶ前から、兵庫介に抱かれて意識を失うたびに、陰から身を隠す隠形結界がほころんでいたことを知ってもいたのだ。  気づかぬふりをしていたのは、交合を拒もうものなら兵庫介が癇癪を起こして手がつけられなくなるからではない。陰狩の鷹の最も重要な力——天風(あまかぜ)を、結界のほころびを補う為に、兵庫介が操るようになっていたからだ。  天風は、不浄を祓うと同時に「陰」の嗅覚を封じる護身隠身を担う力であり、これを自在に操れねば陰狩の鷹は生きてはゆけぬ。されど十四歳という若さで鷹眼がひらいた兵庫介の力には(むら)がある。もの凄まじい天風を吹かせたかとおもえば、ひたとも吹かせることが出来ないことも。  ——天風を喚べぬ鷹など、鷹ではない。地を這う四つ足の虎よ。  できそこないよ、虚けよと、周囲はなじった。陰を狩るどころか、反対に狩られてしまうに違いない。結界に護られた里を出たら一月も生きられぬと鵺の年寄衆は云い放ったものだ。  だが、兵庫介は狩られなかった。  天性ともいえる狩の勘を十六歳の少年はすでに持っていたのだ。  半太夫も必死で護った。天風を喚べぬ兵庫介を休ませる為、夜通し隠形結界を張りつづけた。そうやって幾度、山桜を見たことだろう。  終わることのない陰との闘いと、兵庫介との夜毎の交合。拒めば癇癪を起こして暴れる兵庫介に手を焼き、身も心もくたくたになって交合のうちに意識が途切れるようになった頃だ。  ふと気づくと閨のまわりに天風が吹いていたのだ。 (あの方は、端が思うより遥かにお強い)  里での修行時に、天風を喚べなかったのは才が無いからではなく、欲っしていなかったから。それゆえ真に欲したとき、だれに教わるでもなく天風は吹いたのだ。  好転したことはさらにある。半太夫が身を任せることで兵庫介が穏やかになり、聞き分けがよくなったのだった。  護らねば、という気負いが消えて、半太夫も変わった。盾ではなく、支えるという女房職の意味を一人かみしめたものだ。 (兵庫さまは見違えるほどお強くなった。だが今はまだ……)  半太夫は、気の澱む冬枯れた杜の暗みへ分け入った。  次第に瘴気が濃くなり、生臭い腐ったような匂いが鼻につきだす。  兵庫介の「匂い」に引き寄せられ、数多の陰が集まってきているものらしい。  風はひたとも吹いていない。  自身を餌にする為、兵庫介があえて天風を止めているか、あるいは狩られてもう息をしていないか……。  半太夫の胸に引き絞られるような痛みが走る。 (兵庫さまは死なぬ。わしを置いて決して……)  最悪を旨とする忍の習いをくつがえす切なる祈り。  ——と、しげみの暗がりから黒いかたまりが飛んでくる。  半太夫は眉一つ動かさず、後ろ腰から小太刀を抜きざまそれを斬った。  腐肉を断つ、びろうな感触。  飛び散る腐液。凄まじい悪臭。  ぐしゃ、とも、べしゃ、ともつかぬ汚らしい音を立てて、それが背後で頽れる。  半太夫は足を迅めた。  正面に黒いかたまりがむくりと起きあがる。  梢ごしに差すまばらな月影が、ぬらぬらしたそれをまだらに照らす。  物に動じぬ半太夫の眉が、わずかだが眉間に寄る。それは苔とも藻ともつかぬ塵芥に動物やら魚やらの屍骸がくっついたもの凄まじいかたまりであった。上辺をもぞもぞと動かして裂け目をつくり、あたかも口のようにクワッと開ける。  ズシュッ!  女房刀・爪白(つまじろ)で薙ぎはらい、呼吸(いき)も乱さず駆け抜ける。  風もないのに木々が鳴っていた。  思った以上に陰は集まっているようだ。 (兵庫さま、ご無事で!)
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