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(三)
半太夫は祈りつつ、予め調べおいた窪へと陰どもを誘導する。
「陰」は念をもった霧であり、憑代をいくら斬り裂こうとすぐさま地を這って集まり起きあがる。滅っするには焔で焼きはらわねばならぬ。
木々が枝を伸ばし、枯れ草がぼうぼうと生い繁った闇の道を、わずかな月の光と闇慣れた忍びの目、強靱な脚をもって、半太夫は駆ける。後ろから寄せてくる腐肉の塊は徐々に膨れあがり、半太夫を押しつぶすほどの大きさになっている。一つ一つは取るに足らずとも集まると凄まじい念の塊となり、村一つ滅ぼすこととてある。そして呑み込まれれば根こそぎ腸を喰われ、憑代の一部となって爛れ落ちるまでおぞましき姿を曝しつづけることになるのだ。
「くッ……」
凄まじい瘴気が濡れた帳のように半太夫の四肢に纏わりつく。
もし、此処に里人が迷いこんだなら、意識を失い息絶えることだろう。半太夫がこうしていられるのは、呪力と引き換えに己の腹に白蛇を棲まわせる胎蛇の術をほどこしているからだ。
前方からまた腐肉の塊が襲ってくる。
半太夫は爪白で斬り払い、崖を跳んで深い窪へと身を踊らせた。同時に四振りの十字剣を放つ。火蛇の尾をひく手裏剣が、恐ろしいほどの正確さで四方へ飛ぶ。
と、膨らんだ巨大なそれが、めきめきと木々を薙ぎ倒しながら半太夫を追って雪崩のように落ちてくる。
窪の底で半太夫は刀印を結んだ。縦一文字に据えた爪白に胎蛇の息を吹きかける。
「南無摩利支天!」
裂帛の気合いと共に爪白が、ビン! と唸りを上げる。
刹那、刀身を軸に風が巻き起こり、半太夫は風を纏って跳躍した。四方に刺さった十字剣が焔を噴き上げ、結界内が燃え上がる。
(狩れたか……)
半太夫は崖の上から燃え盛る地獄の釜のような窪を見下ろした。腐肉の焼ける悪臭が黒煙となって杜の空を焦がしてゆく。
常の陰なら火蛇結界からは逃れられぬ。が、常ならぬ陰であれば別であった。しかしそうであるなら、もはや半太夫の手には負えぬ。
黒霧となって逃げる陰を追えるのも、常ならぬ陰と渡りあえるのもただ陰狩の鷹のみ。それゆえ陰狩の鷹の不在は魑魅魍魎の跋扈する暗黒の時代へと逆戻りすることを意味する。
——と、杜闇の奥で蒼い火焔が上がった。
(兵庫さま)
半太夫は枝へと跳躍した。ゆらめく蒼い光に向かって木々を渡る。杜を、生臭い霧がじっとりと濡らしている。
冬枯れた木々の向こうに蒼焔の海原が見えた。大小無数の黒い塊が焔の中で蠢いている。
蒼く染まる闇のおぼろに巨大な黒い塊がそびえ立っている。ゆらゆら浮遊しているのは生首であろうか。髪の毛らしきものが、おぞましげにぶらさがっている。
そして、覚えのあるがっしりした人影。
「どうした? 見事わしを喰ろうてみよ!」
兵庫介が、青眼につけていた鬼爪丸の鋒を釣込むように下げる。薄笑みを浮かべた不敵な顔を、蒼い火影がゆらゆらと照らしている。炯々たる二つの眼は憑代の奥に潜む陰へと据えられている。
天風は吹いていない。自らを餌とする陰狩に天風は妨げとなる。
兵庫介の回りをぐるぐる巡っていた生首が一転、兵庫介目掛けて矢のように飛んでゆく。
鬼爪丸の刀身が振り上がり、閃光が走る。毒々しい血煙を上げて生首が真っ二つになり、蒼い焔に巻かれて落ちてゆく。
「熊公。ずいぶん行儀がよいのう。どこぞのお屋敷にでも飼われていたか?」
兵庫介が巨大な黒い塊に向き直って嘲るように云う。するとそれが爛れた肉をひくひくとふるわせて腹の辺りを開き、ぬらぬらした腸のようなものを見せる。
「くさい息を吐くな」
兵庫介が厭そうに横を向いたその時、ぬらぬらした穴から、ビュッ、となにかが飛んだ。兵庫介の四肢や鬼爪丸に、ぬめぬめとした長いものが糸を引いて搦まる。兵庫介の躯がひっぱられるように傾ぎ、巨大な黒い塊がずるりとなにかをひきずって迫る。
(兵庫さまッ)
半太夫は刀印を結ぶや爪白に胎蛇の息を吹きかける。
「南無摩利支天!」
刀身に風が巻き起こったが、半太夫は飛ばなかった。
兵庫介が搦まるそれを一刀の許に斬り落とし、獲物を狩る鷹のごとく巨大な塊の奥に潜む陰へと殺到する。
ズシュ!
ひくひくと蠢動するおぞましき口が横一文字に斬り裂かれる。
崩れる腐肉が燃えあがり、巨大な蒼い火柱が杜の空へと噴き上がる。
半太夫は枝から乗り出したまま、杜闇を染める妖しくも美しい蒼い焔を見つめた。陰狩が人知れず闇で行われるのは、この異界の焔ゆえである。
蒼く染まった宙で、ぽつぽつと火焔が上がる。浮遊していた生首どもが鬼爪丸に引き裂かれて燃え上がったのだ。
蒼くゆらめく焔の中、腐肉が頽れ白い砂になってゆく。されど煙も立ちのぼらず、肉の焼ける臭いもしない。
兵庫介が操る鬼爪丸から立ち上る蒼き焔は、人が触れても熱くないのだ。だが輪廻より外れしものには、骨をも溶かす地獄の焔であるらしい。
逃れるようにふっと黒霧が噴きでたが、追ってきた焔に焼かれ、花火のように発火してきえる。不浄を焼きはらう蒼き火焔はやがて消え、芳しい天風が吹いて夜の杜を浄める。
半太夫は枝から身をおどらせ、音もなく地へと下り立った。
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