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(四)
覆っていた雲が晴れ、杜の空に半月が掛っていた。じっとりと纏わりついていた瘴気が消えて、躯が軽くなっている。
「兵庫さま」
木立の奥から声をかけると、梢ごしにそそぐ月光の下、鬼爪丸を鞘に納めた兵庫介が驚いた面つきで振り返る。鋭さの勝った双眸から焔の色は消えていた。
「おった……のか」
「はい。お気づきになられませなんだか?」
「……」
狼狽えた顔は昔と変わらぬ。たった今、数多の陰を見事に狩った不敵な狩人とは思えぬ、童子のような所在なさげな顔。
半太夫はおかしくなったが笑みはこぼさず、慇懃に微笑む。
「よき事をなされましたな。陰は不浄を呼び、人心を荒らし、地を穢すのでござります。これだけの祓いがなされた此の地は、風の通りがようなることでござりましょう」
「怒っておらぬのか?」
「怒っておりまする」
「……」
「独りで狩をやってはなりませぬと、それがしは申し上げた筈にござります。お忘れで?」
「……忘れてはおらぬ」
「なれば何故、独りでゆかれましたのか?」
「……雑魚ゆえ……おまえを起こすまでもないと……思うたのじゃ」
「雑魚とて集まれば、村一つ滅ぼすほどの力を持ち申す。侮ってはなりませぬと申し上げましたぞ」
「……」
「此たびは事なきを得申したが、次もそうとは限り申さぬ」
「わかっておるわ」
兵庫介が、ばつが悪そうに顎を撫ぜながら肩をいからせ歩きだす。その背を見つめながら、立派になったと半太夫は思った。
鷹眼がひらいたとき、兵庫介はまだ十四歳の童子であった。人を信じぬ、いや、信じぬどころか敵意をむき出しにした、暴れることしかできぬ傷ついた野生の虎の仔——そんなふうであった。
そんな暴れ虎のような兵庫介の女房になり、死出の旅と云われる陰狩の旅に同伴している縁を想う。
あの夜——
鵺の年寄衆より物狂いとして鷹密殺の命が下ろうとしたあの夜。
傷ついた兵庫介を保護せんと漆黒の紅葉山へ入山しなかったら、おそらく女房になっていなかったことだろう。そうであれば今頃、邑井家の惣領として楢芝衆頭目を名乗り、鷹見家当主の女房として江戸屋敷に居たのだろうか?
「どうした、お半。疲れたのか?」
五間ほど先で立ち止まった兵庫介が、案じ顔でこっちを見ている。
「ええ、疲れましたとも。眼を覚ましたら貴方さまがおられぬゆえ、どれほど案じましたことか」
眉を顰めて云ってやると、兵庫介が叱られた童子のように首をすくめる。
そんな兵庫介を見やりつつ、つと、気を失うほどの烈しい交合が思いだされて肌が燃え、あられもなく乱れた自分が面映い。
「おぶうてやる。つかまれ」
戻ってきた兵庫介が、広い背中を差出してしゃがむ。
「結構でござります。女こどもじゃあるまいし」
「誰も見ておらぬ、な、お半、つかまれ」
「お断り申す」
きつい口調で云うと、兵庫介が途方にくれたような情けない顔をする。狩の時に見せた猛々しい面構えとあまりに違っていて、半太夫は思わず笑ってしまった。
「情けない顔をされますな。半太夫は、貴方さまに惚れ直したのでござりますぞ。先ほどの闘いぶり、見事でござりました」
「まこと……か?」
「はい」
「まことにまことか?」
「はい。今後とも怠けることなく精進なされば、貴方さまはもっと、もっと、お強くなられることでござりましょう」
「うむ!」
兵庫介が鼻の穴を膨らませて大きくうなずく。
半太夫は微笑み、月影の中を歩きだした。どこかの梢で、梟がのどかな声で鳴きだす。浄められた杜に心地よい夜風が吹き抜ける。
兵庫介が天風を吹かせているのか、それとも天風が兵庫介に寄り添っているのか?
「お半、つかまれ。な」
兵庫介が後ろから走ってきて、半太夫の前でしゃがむ。
「兵庫さま。それがしをおぶうてくださっても、今夜はもう交合は終いでござりますぞ」
「なに……」
「交合は一晩三儀までのお約束。それがしの後ろ門より、すでに三儀分の子種がでて参りましたゆえ」
半太夫がにっと笑うと、兵庫介がおどおどと眼をそらす。
「なれば兵庫さま。湯浴みをいたしましょう。里人が申していた湯が涌き出るという河原。小屋からさほども離れておらぬようでござりますれば」
「おお、さようか。なれば背を流してやる、な、お半」
「忝のうございます。なれど交合は致しませぬぞ」
「お半……」
兵庫介ががっしりした厚い肩をしょんぼりと窄め、半太夫は笑った。
下草に落ちた月影の斑紋が明るくなりだす。月が中天に掛かったようだ。
「お半。おぶうてやる、つかまれ」
「なれば、お願い致しましょうかな」
半太夫は長身を折って、黒羽二重の背につかまった。肩や胸の厚み、腕の太さは兵庫介が勝っているものの、背丈は一寸ほども高い半太夫だ。
兵庫介が後ろ手に半太夫を抱え、ふらつきもせずに立ちあがる。どこからともなく花の匂いがした。杜のどこかで山梅が咲いているものらしい。もうすぐ弥生。花見月である。
月影の道を、兵庫介の背にゆられて行きながら、縁の不思議を想う。
あの夜——
紅葉山へ入山しなかったとしても、自分は兵庫介と旅をしていた気がするのだ。
「兵庫さま」
「なんじゃ?」
兵庫介が首を回す。汗を光らせた濃い横顔は微笑んでいる。
血のような赤い眼に怒りの涙を滲ませた哀しき童子はもういない。
「いいえ、なんでも」
兵庫介の髪に頬を押しあて、半太夫も微笑む。
春がまた巡り来ようとしている。
旅に出て六度目の桜が、もうすぐほころぶ。
了
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