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寛弘二年六月、藤原行成は侍従のまま左大弁に昇進した。
六月に除目というのは、多いことではないが、欠員が出ればどうしようもない。
もう一人同時に参議に昇進したのが、源経房である。近衛の中将のままなので、宰相中将と呼ばれる。
合わせて、受領まで含めて、他の欠員も補充された。
その中の一人が、摂津守だ。
来年帰任するはずだった、摂津守が任期中に亡くなった。
摂津守といえば儚くなられた后の宮に仕えた、清少納言の夫ではないか。
主君には死に別れ、夫にも死に別れた。
かの才女は運がない。
摂津で男の子を産んだと聞いた。
その上には女の子もいる。
女の一人身で二人の幼い子を育てるのは困難を伴うものだ。
行成自身が、幼くして父を亡くした。
祖父は太政大臣にも登ったが、行成が生まれた年に祖父は亡くなった。
その後に、父も早世した。
幸い、母方の祖父が存命だったので、藤原北家九条流に生まれた行成だが、醍醐源氏の中で育った。
対して清少納言の年上の夫に親がこの世にいるはずもなく、清少納言の父もすでにこの世にない。
後ろ盾のない女領主や、幼児の領主を馬鹿にして荘民が荘園の収益を横流しすることは往々にしてある。
清原の兄は、これがまた頼りにならない。
歌人の家に生まれたのかと疑いたくなるほどの、無頼漢という言葉が似つかわしい男だ。
つまり、清少納言は頼れる身内もなく、女一人で二人の幼い子たちを抱えて生きていかねばならないのである。
清少納言本人は名のある女房だったが、若さもなく、本人に大した財産があるわけでもない。再嫁と言っても幼い子どもたちの財産を狙う不届きな男に狙われるだけだろうか。
再度女房として出仕をするしかあるまい。
まだ四十九日も開けぬうちから、京に摂津から出仕の助けを求める文が届くわけもない。ただ、行成は近く左大臣に清少納言の再出仕の話をしに行かねばならないと思った。
あるとき、行成は宰相中将・源経房と顔を合わせた。
どちらが言い出したわけでもないが、清少納言の話になった。
行成とは逆に、経房は醍醐源氏の左大臣を父に持つが、父が左遷されたので母方の藤原北家九条流の中で育ったのである。
何不自由なく育ったとはいえ、経房もまた、父に頼れぬ子の悲哀を肌身にしみて知っていた。
そして、清少納言と経房は、姉と弟のように親しむ仲だった。
后の宮が存命だった頃、経房は頭の中将で、行成は頭の弁だった。二人とも蔵人頭として共に帝に近侍したのである。
二人が后の宮への取次を頼んだ女房こそ、清少納言である。
「あの清少納言だが、いくら主君は后の宮お一人と思うと言っても、二人も幼い子を抱えてはどうしようもあるまい」
「さすがは左大弁。全く同じことを考えていた」
二人は揃って、土御門の左大臣と北の御方・鷹司殿を訪ねた。
御簾の奥に、中宮の生母、鷹司殿・倫子が控えていた。
ただの受領の妻の話ならば、左大臣夫妻がわざわざ聞くこともない。
しかし、宮さまの女房を一人推薦したい、と言えば話は変わる。
二人の公卿の話を聞いて、倫子は家女房伝いに二人に伝えた。「喪が明ける頃、赤染衛門か、和泉式部を喪が明ければ遣わして出仕の話をさせる」
左大臣はそれを聞いて満足げに頷いた。
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