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 行成には若い頃に中関白に引き立ててもらった恩義がある。  清少納言と皇后の宮を通じて、蔵人頭としての職務に支障が減った。その義理もある。  あくまでも、行成が恩義があるのは、亡くなった中関白と皇后の宮に、である。そして清少納言に義理がある。  隆家には変わらぬ友情がある。  しかし、伊周は。  行成は伊周・隆家が花山院に弓を引いた長保の一件を頭の弁として帝の側近くで見ていた。  中関白家への怒りが強かったのは、左大臣よりも帝である。件の女人は斉信の姉妹たちだった。斉信が家族からの連絡を受けて帝に奏上した。  藤氏、特に北家は全体を流刑にされかねない勢いに、行成は内心ハラハラした。  行成自身にまで類が及びかねなかった。  帝は伊周を責めた。  隆家については兄に命じられて弓を引いたのであろう、としか仰らない。しかし、実行した隆家を放免にするわけにはいかない。  帝は最愛の后の宮の兄弟の性格をよく知っておられた。  后の宮が悲しむのは知っていたが、帝は心を鬼にして伊周・隆家兄弟を流したのである。頭の中将だった斉信が各所に勅令を伝え、検非違使庁別当だった実資が当時中宮と称していた后の宮の御所に捜索に入った。  弟の隆家は素直に出てきた。  しかし、兄の伊周はずっと隠れ回った。宇治の父の墓に別れを告げに行った、出家するつもりだったとも言うが、本当のところは定かではない。  妊娠中だった后の宮のために、帝は伊周を播磨国に、隆家を但馬国に留められた。  隆家は素直に但馬で謹慎していたが、伊周はというと、今度は母の病を口実に京に舞い戻り、中宮御所に忍び込んだ。  孝行息子といえば孝行息子である。  退位したとはいえ、相手は法皇である。  伊周はかつての菅原道真や、経房の父・源高明のように謀反の罪があるように「見えた」訳ではないのだ。  その袖を射抜いてみせたのは、真実謀反である。    母を口実に京に舞い戻った謀反人・伊周に対する帝の怒りは、火に油を注ぐ結果になった。伊周は太宰府まで実際に行かされたのである。  近年、その帝はその流罪人・伊周を准大臣まで復位させた。  それは后の宮への供養である。  左大臣は自らが太政大臣になることで、三大臣のうちの一つを空位にして伊周を内大臣に復位させる腹づもりであった。  しかし、それを拒絶したのは帝本人である。 「大臣(おとど)の器にあらず」  大臣にもせず、大納言の上に置く。朝議に席次はあるが、正式に参議とは認めない。兄は飼い殺すのである。  それに対して隆家はいち早く参議に復帰し、権中納言に復位している。  弟は使うのである。  その意図を知ってか知らずか、儀同三司と唐風に自称したのが、この伊周らしいことである。  公任と和漢の詩歌を朗詠していれば良いのだ。  行成は、さすがに嵯峨の帝や空海に並ぶとはおっしゃらないが、小野篁に並ぶ能書だと帝が褒めてくださる。  書けと言われれば、お前の作った漢詩でも和歌でもいくらでも書き写してやる。  その父や妹の宮への恩義はそうして返してやる。  友になれと言われれば友になろう。一晩でもふた晩でも語り明かしてやる。  しかし、伊周が一の人になる取っ掛かりを作る気は、行成にはさらさらない。  中宮さまはまだお若い。  中宮さまがご出産にならないならば、土御門家には中宮さまの妹姫がまだ何人も控えている。順にご出産になるまで入内されれば良いのである。  そのときには一の宮さまはどうなるのか。  別当としてはもちろん、一の宮さまが即位されれば嬉しい。  しかし、今上に近侍する者としては、あの伯父がいる限りは一の宮の即位は望ましいことではない。  かつての陽成院の同母弟宮のように風流に生き、永らえられれば別当としての責務を果たし、后の宮への恩義を返すことだと信じている。
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