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青竜の生贄
水を被ると頭が冴えた。
屋敷の裏手、家人しか出入りできない裏戸から出たところで、足垂 碧緒(あしだれ たまお)は禊をしている。
今日から春だと言われても、季節は突然変わらない。相変わらず気温は低く、水は冷たい。とりわけ早朝の井戸水は凍っていないのが不思議なくらいで、痛みを感じるほどだった。
毎年、いや、この時期なら毎日のことだった。碧緒は物心つく前から夜も明けきらぬ時間に起きてはこうして身を清めてきた。ただの一度も酷だと思ったことはない。ついに碧緒は最後の最後まで、苦行だとは思わなかった。使命を全うしたような気分であった。
けれども少しも達成感はなかった。ただ肩の荷が降りたような気持ちと、胸にぽっかり穴の開いたような喪失感がある。
自分の頬を井戸水とは違うものが伝っていることに気づき、碧緒は思わず笑んだ。そうしてそっと白み始めた空を見上げて息を吐いた。空気が白くけぶる。
こんなにも名残惜しいとは思いもしなかった。けれどももう、遅い。
碧緒はもう一度体に井戸水を掛けた。肺がぎゅっと締め付けられるような感覚がして、思わず漏れた吐息は空気に溶けて見えなかった。
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