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さっきまで彷徨い歩いていた音色はどこかに消えてしまった。静寂が熱を鎮め、現実へと引き戻される。俺は束の間動きを止め、もう一度大人しく唇を重ねた。
一瞬ひんやりとした痛みが走り、やんわりと互いに溶けていく。鼻先にかかる吐息が何かに心酔するようにゆっくりと深みを増していく。彼女は空のことを考えている、直感的にそう思った。
ふいに携帯電話のバイブ音が静寂を破った。
その瞬間、彼女はそれを予感していたかのようにするりと俺の元を離れ、携帯電話を取って、部屋の隅に行ってしまった。着信は電話だったようで、彼女はその場でぽそぽそと話し始める。
俺はベッドに腰かけ、彼女の姿を見つめた。仄暗い夜闇が幕のように下りる中、俯きがちな横顔が白く際立つ。その表情は、初めて見たあの時とは違い、柔らかく笑みを湛えている。時折小さく頷くと、瞳の奥にある夜の波がちらちらと楽しげに月明りを弄んでいた。
ふいに彼女は空を見上げた。顔が上向くにつれて、月光が彼女を独占する。頬はゆるやかに桜色に染まり、夕空を支配した闇に妖艶に浮かび上がっていく。その姿は息をするのも忘れてしまいそうなほどに美しかった。
太陽を宿した瞳よりも、遥かに。
けれど、恍惚とするほどに思い知らされるのだ。この美しさを引き出すことができるのは俺ではない、と。
電話越しに深く、草臥れた声色がかすかに聞こえる。それは夜の闇を知り尽くしたような響きを湛えていた。
ふいに男の銀色の指輪が放つ光が頭の中を過ぎる。目の前の彼女の美しさとは違う、正統に輝かしい光。でも彼女はその光の陰に居場所を見出していて、そこがひどく脆い場所だということも知っていた。
この永遠に終わらない愛だけになってしまったならば、彼女はきっと、夜の海に入水自殺するに違いなかった。ならば俺は、彼女を陽の光のもとに繋ぎ止める役になろう。それがたとえ仮初の愛でつながれていた仲だとしても、貴女が笑ってくれるのならば。
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