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梅の薫りが春の陽気を連れてきてくれるはずだった。しかし、天気は気まぐれでそうはいかない。
今年は珍しく、梅が満開の頃に雪が降った。
梅の花に雪が積もり、重さに耐えられずに花びらが雪に積もった庭にぽつりぽつりと落としていく。
春はもうすぐそこにある。
***
「春之さん、私ね、あなたの描いた墨絵が好きよ。」
ゆきえは俺の手をそっと握る。日和のように心地の良い手が俺の冷たい芯を溶かしていく。
「墨絵は黒と灰色しかないのに、どうしてあんなに梅の花の赤や白が見えてくるのかしらね」
「ほお、、画家としては嬉しい褒め言葉だなあ」
そう言いながら、ゆきえの布団をかけ直す。
「もうすぐ、庭の梅の花も咲きそうね。蕾が膨らんできているわ。」
「梅が咲いたら、少しは陽気も良くなるから庭に出て日向にあたるといい。たまには外に出ないとな。」
「そうねえ。私の体がその頃に花を見ることができればいいのだけど。もうすでに出かけてしまってるかもしれないから。」
ゆきえは困り顔に笑顔を浮かべる。
「そんな事言わないでくれ、肝が冷える。」
「ごめんなさい。梅の花も大事だけど。それより、あなたにはちゃんとお見送りしてもらいたいから。」
「どっちもするってのは欲張りかい。」
「神さまは許してくれるかしら」
ゆきえは瞳から雫をこぼし、こちらを見つめる。
俺は抱きしめることしかできなかった。
零れた雫はゆきえの薄紅色の着物を紅梅色に変えていく。
神とやらがいるならば、一度くらいは俺の望みを叶えてくれ。それができないなら、いない神を死んでも呪うだろう。
***
しんしんと雪が積もる真夜中。
畳には墨が水面になり、黒い池をつくっている。
月夜で脇差しの刃が首筋で白く光る。
瞬間に、積もった雪の上に紅梅が花が溶けていく。
書斎の机には滲んだ老木に梅の花が咲く墨絵が残されていた。
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