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月に願う
鬼蜘蛛が屋根の上、望月が中天に掛かるのを眺めていると、体表にびっしりと生えた絹の艶やかさをもつ繊毛が、そよと揺れました。
風が枯葉の匂いをのせて、北西の岩橋山より吹き下ろして来たのです。
〈胡蝶はどうしているかしら〉
鬼蜘蛛は屋敷の内、板敷きにのせた畳の上で寝息を立てている主人、19歳の少女のことを思いました。
胡蝶はおそらく、袿すらも掛けてはいないでしょう。
〈今宵はこれから、風が強くなる。嵐と呼ぶほどの暴風になるやもしれない〉
風防ぎの支度をするため、雌の鬼蜘蛛は寺の釣鐘ほどもある身体をそろりと動かします。
彼女が四方に張り巡らした糸の、要となる「環」から触肢を引き抜こうとしたそのとき、北東に延びた糸がぴんと張りました。
屋敷のまわり一里四方に仕掛けておいた糸に、何者かが引っ掛かったのです。
男の声が聞こえました。
「俺の足に、何かが触れたぞ」
「そのくらいで魂消れてどうする。もすこし先に行けば、寺の鐘楼よりも大きな『つちぐも』という化け物が待ちかまえておるのだぞ」
男の足に絡んだ糸は音を運び、環を介して鬼蜘蛛の触肢を微かに震わせます。
彼女はそうして遠く離れた場所のやりとりを聞くことが出来るのでした。
「恐れてなどおらん。ただ化け蜘蛛退治のために、こんな遠くまでと思ってよ。そいつは京を追われて奈良に落ち、この葛城山のふもとに逃げ込んだのだろう? 放っておけば良いものを」
「仕方なかろう。『大罪人のつちぐもを討て』とは、我らが殿の頼光様に主上より直に下された宣旨であるぞ。それにつちぐもは人間の女と、連れの妖怪蜘蛛の渾名ではないか」
「そう言うけどよ、相手はしょせん女と妖怪変化だ。討ち取っても手柄にならぬ。吾は武を振るうならば、武者を相手にしたいと言っておるのよ」
糸はそこで切られ、音声も途切れました。
鬼蜘蛛は環から触肢を引き抜き、8つの脚を伸ばします。
のんびりとしてはいられません。
宙に身を投げ、庭の柿の木に音もなく降り立ちました。
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