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第一章 運命の速雨
数週間前────港町イシエルから程近い採石場。大小様々な形に切り出され放置された石灰石が、日中の賑わいを隠し、揃って虚栄の永遠を創り出している。粉塵の醸す独特の乾いた匂いに紛れ微かに香る潮の酸味は、何処か寂れた空気を強調しているように思われた。だが遠く揺らめく酒場の賑わいは、それとは対照的な繁栄を闇夜に描いている。
繁栄と衰退の共存する街。それが、イシエルであった。
ふと眠り損ねた海猫が、寂しげな鳴声を上げて星の瞬く濃紺へと飛び去ってゆく。時刻はもう零時をとうに回り、ぽっかりと大口を開けた穴は、闇夜にすっかり沈み込んでいる。その淀みの中で、巨大な採石場で働く監督官とその管理下に置かれている奴隷達が寝起きをする横穴から、心細い灯りが一筋、石灰石の虚栄と同じ長さで伸びていた。
視界がぐわんぐわんと歪む中で、まだ幼さを残した年若い奴隷の少年リシュは、赤黒い塵芥の詰まった爪先を眺めていた。強烈な睡魔が、物凄い勢いで彼を攫おうとしている。無理もない。日中休む間も与えられずに細い身体で石を引き、少しでも足が縺れようものなら無慈悲な鞭の餌食となっていたのだから。それに普段ならばとっくに狭い岩牢の中で、噎せ返るような土と汗の匂いに包まれ僅かな眠りを貪っている筈なのだ。それが今宵は監督官の男に連れ出され、彼の下手くそな朗読を聞かされている。
目の前で足を組む監督官の名前はベイルと言って、何かとこの採石場では少し他の奴隷とは毛色の違うリシュを構ってくるのだ。今日だけでは無く、顔に似合わず多趣味な彼は、これまで様々な娯楽をリシュに教えた。普通ならば就寝時間に懲罰以外で奴隷を連れ出すなど有り得ない事だ。しかし彼はこれまで特にそれを不思議に思う事はなかった。と言うのも、リシュは採石場では珍しい奴隷なのである。彼は幾百年前領地争いに敗れ、奴隷民族に堕ちた、リマ族の血を引いていたのだ。
リマ族とは美貌の民族として名高く、現在多くは性奴隷として飼われている民族である。それと言うのも、リマ族は短命で、また筋肉の発達がそれ程に思わしく無いのだ。成人した男でも、女のようなしなやかな四肢は仄かに薄い筋肉に覆われるのみである。その為に、採石場などの肉体労働には不向きとされていた。リマ族は殆どが性奴隷と言う事もあり、他の奴隷民族に比べ、その血を引くものは取り分けて生まれ付いての奴隷が多い。
リシュもまた、親の顔も分からぬ奴隷の子として十六年前に生まれ落ちた。しかしながら彼は本当に些細な事情が入り組み、性奴隷としては扱われず様々な人の手を渡った後にこの採石場に流れ着いた。当然他の奴隷より一回りも身体が小さく、染み付いた奴隷の性がその小さな身体を更に卑屈に縮めるのだが、その小ささは逆に人の目を引いてしまう。だからベイル程とは言わないが、他者に構われる事はこの採石場に来る前から良くあった事なのだ。故に彼の行動も、リシュにとっては珍しいものでは無かった。
リシュは必死の思いで落ちる瞼を引き上げて、抉り取られた岩壁に反響する野太い男の声に聞き入った。
「人々は愛の為に生きる活力を漲らせ、また愛の為に死への根拠無き恐怖を乗り越えるのだ。それこそが人間にのみ与えられた、神の恩恵である」
男の言葉が何処で区切れるのか注意深く神経を張り巡らせながらも、彼の小さな頭は既に沢山の疑問符で埋め尽くされていた。ベイルは一体何を言っているのだろう。一瞬浮かんだその疑問も、リシュは慌てて振り払い、再び無心で彼の声に耳を傾けた。それは彼の声にであって、決して彼の言葉を理解しようと言う訳では無いが、それでもリシュは従順に主人の声を聞いた。それこそが、彼が生まれた時より培って来た性質であった。
しかしこれは一種の拷問であるとリシュは考えていた。人間における三大欲求の一つを、こうも惨たらしく奪うのだから。だがベイルと自分の立場は天と地の差とは言え、彼もまた眠らなければならない筈なのだから、少しは希望と言うものが持てる。
「おい、随分退屈そうじゃないか。俺がわざわざ読んでやってるってのに」
不意にそう声を掛けられ、リシュは垂れていた頭を慌てて地に擦り付けた。
「い、いえ……」
「じゃあなんだってそんな面してんだ。面白くないか」
そんな面と言われ、背筋にじっとりと汗が滲んだ。一体自分はどんな顔で彼の気まぐれな朗読を聞いていたのだろう。生まれてこの方鏡すらも見た事が無かったリシュは、まるで想像も付かない自分の顔を思い浮かべた。骨に皮が張り付けられた程度の痩せこけた少年である想像上の自分。生気の無い眼は淀み、頭上から降り注ぐ光を忌み嫌って痩せた大地を映し出すばかり。今迄出逢った誰の顔とも似通ったそんな自分は、至極退屈そうに小さな足を眺めていた。
どうして彼がそんな想像しか出来なかったのかと言えば、違う骨格を持ち、違う血統の筈の人々の顔は、少年の目にはどれも相違なく映っていたからである。彼が生まれてから始終周りを取り囲んでいる者は、皆彼と同じレールの上を歩んでいる。それ以外の人間と言えば、今目の前にいる彼のような監督官ばかり。その彼等もまた、生への希望に満ちてはいなかった。
リシュは慌てて顔面に出来得る限り服従の色を貼り付ける。しかしベイルの日に焼けた荒々しい顔は、先程よりも険しく顰められるばかり。
「なんだ、その変な顔」
「あ、あの……」
退路を断たれた鼠の如く、しどろもどろでロクに言葉も続かない少年の旋毛を心底面倒臭そうに眺めながら、ベイルは深い溜息を吐き出した。
「感想だよ、感想。俺はおまえにどう思ったのか聞いているんだ」
ここでもリシュは許す限り逡巡した。
一体どうしたら、彼の意に沿うのだろう。その額の皺を消し去る事が出来るのだろう。彼にとって小説の内容などどうでも良くて、唯ベイルが不機嫌になってしまう事だけが気掛かりで仕方がなかった。
何時迄も答えを言わぬリシュに呆れ果てたのか、ベイルは組んだ膝に小説を伏せた。
「詰まらねえな。これだから奴隷相手は嫌なんだ」
明らかな失意は、幼い奴隷の行きすぎた悲観癖には酷く染み入る。
「ご、ごめんなさい」
何を謝る事があるのかと問われたら、リシュはそれだけは迷わずに言うであろう。主人の望みを果たせなかった。それこそが自らが犯した罪なのだと。それは彼にとって、存在意義の消滅である。
使い物にならない奴隷など、簡単に切り捨てられてしまうだけだ。リシュは作業中に起きた不慮の事故で、鉛玉の餌食となって行った数多の人々を想った。切迫した恐怖心が、身体に残る貴重な水分を垂れ流す。
未だ地に頭を擦り付ける卑屈な奴隷の髪を、粗雑な創りの男は容貌に似合わぬ柔らかな所作で撫で上げた。
「良いか、リシュ。お前も少しはだな────」
そこで言い淀むと、ベイルは何やら狂おしそうにジッとリシュを見詰めた。その瞳が訴えるものが何であるのか、彼には皆目見当も付かない。唯々分からない恐怖に全身が戦慄くばかりである。
まるで死刑宣告の前の、永遠に思われる沈黙を経て、ベイルは小さな溜息を吐いた。
「まあ良いや。ほら、もう戻れ。静かにな」
「はい……」
深々と頭を下げて、リシュは監督官の部屋を後にした。
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