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ふさわしいお返し
蝉が鳴いている。
異常なほどの数の鳴き声が、けたたましく、果てしなくこだましている。
「そうだ、お返しをしよう」
誰にでもなく呟くと、俺は緩慢な動作で布団から身を起こした。
一年前から止まったままの壁掛け時計の代わりに、充電コードに繋がったスマホを引き寄せ時刻を確認する。
「四時か……」
カーテンの隙間から差し込む眩しい煌めきに目を細め、頭を掻きむしる。
伸び放題になった髪が鬱陶しく指先にまとわりついた。
覚醒したばかりにもかかわらず、思考は冴え渡っていた。
まるで長い長いトンネルを抜けたような開放感と高揚感に胸が高鳴り、かたく握った手のひらは汗ばんでいる。
床に散乱した新聞紙を踏みしめ、フラフラとした歩みで洗面所へ辿り着くと、もたれるように蛇口を捻る。
年季の入った水道管は不気味な音を立てカルキ臭い冷水を吐き出した。
俺はそれを両手で掬い取ると、垂れ落ちる水がスウェットを濡らすのも気にせず顔面に叩きつけた。
閉じた瞼の裏に蘇るのは、いつも決まって同じ憧憬だった。
夕焼けに染まったひまわり畑を背に、白いワンピースを翻す少女は可愛らしい笑顔で麦藁帽を大きく振っている。
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