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湖の底にいるようだった。周りの音は遠く、そしてゆがんで僕の頭に響いてくる。周りから泡が一つ、また一つと浮かび上がっていく。俺はそんな中で、ただ一人取り残されていた。
そんな不快さから逃れるために、俺は学生服のポケットからミュージックプレイヤーを取り出して音楽を選択する。
ピアノ曲にしようか、それとも洋曲か、はたまた流行りのアップテンポの曲か、などとスクロールして曲を選んでいると、その一番下に見慣れないデータを見つけた。
ファイル名は「ありがとう、さよなら」。ありそうな曲だとは持ったが、俺はこんな曲を入れた覚えはなかった。少なくとも、一昨日使った際には、こんなデータは入っていなかった。
流されるままに、その曲を選択して聞くことにした。
3分ほどのファイルだった。ただし、始まりは前奏なし、リズムなしの、女性の声だった。どこかで聞いたような、少し幼さの残る、あどけない声。
「優くん、こんにちは、舛中美咲です。こんな風に直接話すことなく、ただ言葉を残すだけになってしまってすみません。勝手に触ってデータを入れたことを怒っていませんか。……いえ、きっと優しい優くんは、こんなことでは怒らないのでしょうね……」
誰だろう、と俺は思った。聞き覚えのある声。だけど、つかみどころのない不思議な声。
けれど、優くん、という、優しさと、それから哀愁が混ざり合ったようなその響きから、俺は病室で見たはかない少女のことを思い出していた。
心臓が強く脈打つ。心臓が、頭が、心が、強くその少女を求めているような気がして、俺は吐きそうだった。こみあげてくる不快さをねじ伏せて、こぶしを握り締めたまま、その声を聴き続ける。
「私が5歳の誕生日を迎えたあの日、川でおぼれてしまった私を助けてくれた優くんの姿は、今も私の目に焼き付いています。そして、本来死んでしまうはずだった、私に、あなたは自身の『幸福』と『運』を分け与えることで、私を助けてくれました。本当にうれしかったです。ありがとう」
思考が、まったくついていかなかった。誰かを助けた覚えなど、俺にはなかった。人違いかと思ったけれど、確かに俺は彼女に以前会ったことがある気がするし、ぼんやりとではあるけど、冬の冷たい川に飛び込んだ記憶はある。
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