第一章  竹内 寛人

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 いつの間にか、握りしめた拳が震えている。泣けたわけではない。身体中にやる気がみなぎっている。流れているのはロッキーのテーマ曲だ。BESTは仕事がうまくいかないときに聴く、気持ちが上がる曲を集めたんだった。こういうときは別れた彼と二人で聴いた思い出の曲をかけるべきだ。けれどスクロールしてもそんな曲は一曲も入っていない。別れた直後に削除したんだった。大きく息を吐き、耳障りのいいボサノヴァをかけた。さぁ、美しい海が目の前に広がり、私は一人で座っている。目を閉じ、今か、今か、と待った。  曲が終わり、次の曲が始まった。ピアノが軽やかに響く。……暑い。  ピアノ曲が終わった。次は女性ヴォーカル。……暑過ぎる。涼しいはずの彼女の声までも暑苦しい。  曲が終わると同時に、勢いよく目を開いた。この、肌を射るような陽射しが合わないんだ。泣くなら雨? もしくは曇りだろうか。まさか既に恋愛が終わっただけでは泣けない年齢になっているのでは。  音を止めて立ち上がり、帽子を外して鞄に入れた。  キャミソールを勢いよく脱いでオレンジの水着になり、バッグからラッシュガードを出して頭からかぶる。  暑いから泣けないんだ。海に浸って、それからゆっくりと思い出にも浸ろう。  貴重品が入っているバッグにタオルをかけ、サンダルを脱ぎ、裸足で石の上を歩いた。石の表面はここで卵を落とせば一瞬で目玉焼きができるであろう温度だ。必然的に飛ぶように進む。一刻も早く海に身体を浸したい。早く早く、と思った瞬間、滑った。滑ったとわかったときには太陽を直視していた。鋭い痛みが後頭部から広がっていく。  ああ、ダメだ。  これで私の人生終わり……?  ああ、泣けないのがダメだったんだ。  残念、と思ったとき、視界がすとんと暗くなった。 「晴香は俺のことがたいして好きじゃないよ。晴香に俺は必要ない」  渉(わたる)はテーブルの表面を見ながら言った。これだ、これ。これを思いだしたかった。 「ごめん、晴。渉くんの相談にのっていたら、つい。渉くん、いつも晴を待っていて寂しそうだったから。でも晴との友情は変わっていないからね」  美姫が笑顔で謝っている。  最後はチーフに言われたこれか。 「加藤、長い休みをとれ」  誰かが腕をさすっている。  私、仰向けに寝かされている。
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