繊細でルーズで少女

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繊細でルーズで少女

「まず、黒のジェッソを下地に使います」 夏子さんの右手は休むことなく画面を上下する。 「紙は波立たない厚手のものがいい。なんならダンボールだって使える。それから──」 西日の当たる部屋でしゅ、しゅ、と鉛筆のすべる音だけがやけに大げさに響いている。 夏子さんの手が、目が、体のすべての神経がほんの四十センチのしかくい空間に注がれている。そのうち説明をしていることすら忘れてしまって、彼女は自分の世界にすっかり入り込んでしまった。 一方のナツは夏子さんの邪魔にならないように息を詰めて膝を抱きしめ、来客用の椅子の上、四十センチの空間に収まっていた。けれど目だけは逸らさない。夏子さんの右手が作り出す世界をナツは目が痛くなるほど一心に見つめていた。 大人なのに不便なほどに繊細で、そのくせだらしないところもあって、夏子さんは少女みたいなひと。ナツと同じくらいの少女みたい。だから夏子さんとはふつうに友達。 大人でも夢中になって絵を描く人がいると知ったとき、ナツはとても嬉しかった。ナツの母親はちっとも絵を描かないから。“そんなこと”をしている暇なんてないの、と彼女は言う。 ──そんなこと。 大人になったら、絵を描くということは“そんなこと”になってしまうのだろうか。それはただのお遊びということか。悪いことなのだろうか。そうしたらナツは、大人になったときどうやって生きていけばいいのだろう。 「絵を描かなければ死んじゃうってわけじゃないよ」 ナツの疑問にいつか夏子さんは笑ってそう言った。 「だけど私にとってそれは死に近い」 安堵から一気に深みに落とされる。笑わずに生きろとか喋らずに生きろとか言うのと同じようなこと、そう言いながらいつものようにアイスティといつのだか知れない湿気ったお菓子を持ってきてくれる。 「息をしてるだけ。生存の意味がないの」 意味がない、というところは分かったが、セイゾンという言葉の意味は分からなかった。でもきっと、ナツの気持ちは夏子さんの気持ちと近いのだろうと思う。だって夏子さんの絵を見ると胸がちくちくする。怪我に塗り込められて沁みる消毒液みたいに。
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