酷暑の夏

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 その時祖父は「これは昔のお金だよ。今はもう使えないんだ。亮くんには、ちゃんと後でお小遣いやるからな」笑いながら淡々とした口調でそれだけ言うと、静かに引き出しを閉めました。祖父の顔は穏やかに微笑んでいましたが、子供心に、祖父にとってこれはとても大事なものなんだろうな、と何となく思ったのを覚えています。そして、その珍しさから、その硬貨の外観も私の目に焼き付いていました。縦書きに書かれた“一銭”の文字。真ん中にある花のような意匠(今思えばそれは菊のご紋章だったわけですが)。部屋の灯りをまぶしいくらいに反射する銀色の表面。実際、その時見たそれは、なんら変形も汚れも無い、殆ど新品と思われるくらいにきれいな一枚の硬貨でした。後年大人になってから記憶を頼りに調べてみましたが、それは戦時中に発行されて普通に流通していた一銭硬貨で、物資不足のおりから材質も粗悪で、特に希少価値は無かったようです。そのせいもあって、いつの間にか私も、その存在を殆ど忘れかけておりました。  その不定形の物体を見た時に、私はこれはあの硬貨がこの暑さで溶けたものじゃないかと思ったのです。今思うと少し極端な発想でしたが、実際、暑さでは日本で一、二を争う熊谷の八月の午後ですからね。既に気温は40度近くになってました。そして、祖父亡き後、その部屋は空き部屋になってて冷房は入ってなかったんです。窓は開けてありましたが、むしろ部屋の中に熱風が吹き込む形になって既に竈みたいな状態です。私もちょっと覗こうと入ってみただけなのに、たちまちプールから上がったばかりみたいに汗だくになっていました。だから、そんな発想をしたのかもしれません。     
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