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雲
体に疲れを覚え、走っていた足を止めた。
空を見上げる。
闇に溶け込む前の、茜色の空。
その中央を蛇のような雲が、ゆっくりと横断していた。
随分と長い雲だった。
我を忘れて、上空を眺める。
こんなことをしている暇はないのに。
蛇の体を下から順に目で追う。スッと伸びた尾。ふくよかな胴周り。その先には、獲物を射らんとばかりに鋭い瞳をした蛇の顔が……。
なかった。
雲の先端には蛇ではなく、人間の……男の横顔がついていた。
心臓が激しく脈を打つ。熱く煮えたぎった血液が体中を駆け巡る。
なぜ、ここまで動揺するのだろう。
期待していたものではなかったからか。
ーーいや、違う。
雲の顔が、アイツにそっくりだからだ。
大学からの旧友だった、あの男に。
オレの恋人だった女を奪っていった、あの男に。
今しがた、この手で殺してきた、あの男に。
早く行こう。ここで時間を食うわけにはいかない。じきに、かつての恋人が男の死体に気づくであろう。
そして、誰が男を殺したのか、も。
事態が知れる前に足を稼がねばならない。だがしかし、体は走るどころか、指一本動かせなかった。目線だけがただただ雲に注がれる。
あの男の顔をした雲に。
その時。
横から突風が吹いた。
突き刺すようなそれに、一瞬、目を閉じる。しかし、すぐに風は止んだ。再び空を見遣る。紅の海を泳いでいた大蛇の体が強風に煽られ、散り散りになっていた。
消えた、か。
思わず、胸を撫で下ろす。
ところが、その安堵もほんの束の間だった。
上空を漂う顔は、体を失ってもなお、そこに留まっていた。
それどころか、今まで進行方向を向いていた目は。
じっとこちらを見下ろしていた。
また、風が吹く。
今度は先ほどよりも弱い風だった。頭上の雲は消える様子がない。ただ、消える代わりに、唇に当たる箇所が、わずかに動いたように見えた。
「やってくれたな」
あの男の声がどこからともなく、聞こえてきた。
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