#4 時の縫合(克己と抱擁)

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 僕が桜井美歌と親子関係になった経緯は、あの史上最悪の厄災ーー日本列島に甚大な被害をもたらした大津波に遡行する。    生後すぐにその惨禍を経験した僕に、その忌まわしき記憶は一切合切残っていないので、その事実は桜井美歌本人による伝聞に過ぎない。    おそらく僕の親は、津波に呑まれて死んだのだろう。そして、どこの役所や病院にも僕が生まれたという記録が残っていないことを考慮すると、僕の親は産婦人科にも通わず、出生届すら提出していない、ろくでもない人間だったと推測できる。もしかしたら、僕に本名というものは存在していないのかもしれない。  ゆえに、『桜井響』という名前は、僕を引き取った桜井美歌が便宜上与えたものにすぎない。『響』と名付けたセンスは、音楽に関わりの深い人生を歩んできた彼女らしいものだとは思うが、僕自身は音楽に興味も素質もないので、実はあまり気に入っていなかったりする。  しかし、自身の生い立ちを不幸と言い切ってしまうことは僕にはできない。  十中八九、僕の肉親は人間のクズとでも罵られるべき人物ではあるが、その人物と過ごした記憶が僕には一切ない。だからこそ、僕に手を差し伸べてくれた桜井美歌という人間を、素直に実母として慕うことができた。  反面、肉親と過ごした記憶がある兄弟たちは、新しい母親という存在を受け入れるまでに多くの時間を要したと思われる。  以前、もう名前も顔も朧気になってしまった『兄』から聞いた言葉ではあるが、本当の家族と過ごした記憶が薄れていくことに、どうしても罪悪感を覚えてしまうらしい。
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