路傍の小石

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 鍵穴をぐるりと回した時、不快だ、と意識の遠くで誰かがいった。内耳(ないじ)の湿った膜を引っ掻くような音をたて、アパートの自室のドアが開かれる。視界を埋め尽くす一面の暗闇は、淀んで腐った温い空気を孕み、私の頬を容赦なく(ねぶ)った。  背後では、真珠の如き丸い月がただ青白く夜半の空に坐し、私をじっと見つめている。暗闇へ足を進めると、早春の夜の柔い明るさから逃れるようにドアを閉め、鍵をかけた。  途端、一切の光が途絶える。私はひとときの間だけ物の識別する能力を失った。  突如として私の胸に押し寄せる、漠然とした不安感。灯りを点けて一切合切を楽にはっきりさせてしまいたいのに、その作業がとても億劫だった。  光なんぞより、闇が身を攫ってくれた方がよほど安心できる。それ故に私はあの優しい月に背を向けたのだった。  やがて玄関口の光源のスイッチを探り当てるより先に、暗闇の方に目が慣れてしまうと、惰性の導く運動に任せて靴を脱ぐ。この住み慣れた四畳半一間のことなら、誰よりも一番よく分かっているつもりだ。  そこらここらを占拠していたはずのごみ袋を潜り抜け、仕方なしに灯りをつける。ジリ、ジリっと嫌な音をたて、低い天井からぶら下がった小さな白熱電球が点滅し、一瞬、苛烈な白が眼球を焼いた。  部屋の照明に目が慣れて、ようやく動けるようになった。  私は部屋中にとぐろを巻いたこの腐臭を追いやるため、ジャケットをハンガーに掛けつつベランダ口の大窓を開けた。すると、清らかな夜風が薄いカーテンの裾を揺らして、私はようやく深く呼吸をすることができた。  今日も、一日をやり過ごしてきた。  特別なことはなにもない。いつも通り新人の尻拭いをし、同期の仕事を押し付けられ、「これだからゆとりは」とくだくだしい上司の説教に頭を下げていただけだ。……  何の感慨にも浸らぬままネクタイを解き、襟を寛がせる。  ただ今在る生を証明するために深く息を吐くと、ぐうと主張した胃袋の辺りに手を遣った。時刻は午前一時前。夕飯を食いそびれたまま残業をしていたことを思いだす。  鈍い動きで冷凍庫の冷飯を温め、冷やし茶漬けを作った。  丸い卓袱台に粗食を置いて、もう三週間は敷きっぱなしの敷布団の上に腰掛けると、月影に照らされた埃が舞い上がる。思わず、ひとつくしゃみをした。
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