路傍の小石

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 ふと、微かな清い夜の空気が鼻腔を抜け、心地よい泥濘の中から私の意識をすくいだした。そういえば、まだ窓を開け放したままであったか。  視線だけベランダへと遣ると、未だかつて見たこともない美しい蝶が一匹、部屋の中へと迷い込もうとしていた。  なんと美しい蝶だろう。私のすべての意識が、その舞い踊る小さな存在に注がれる。  銀色の月の光を受けて、まるで我が故郷の森を映した(さや)かな川面のように、その翅は優雅に(あお)く煌いている。この蝶を捕まえられたのなら……否、一度でもいいから私の鼻先に接吻(くちづけ)を落としてくれたなら、それはどれだけの幸せだろう。  私は少しでもその蝶に近づきたかった、しかしできないのだ。私の身体は、もうどこもかしこもドロドロで、空っぽだった。思い通りに動いてはくれまい。  やがてその蝶は、ふわりふわりと夜風に乗って、私の視界からいなくなってしまった。まるで私のことなど、最初から気づいてもいなかったというように。  ――嗚呼、そうだ。きっと、私はきっと、誰からも気づいてもらえない。  その時私の胸に去来したのは、いっそ鮮やかなほどの絶望だった。  私はずっとここから動けないでいるのだ。進みも退きもできぬまま、ただ日常の生活に揉まれ、潰れて、埋もれていく。  しかし、私はそれを選んでしまった。「大人になる」というある種の精神的惰性故に、私は声もあげられずに磨り減っていった。  こんな矮小な、有象無象のひとかけらに、誰が目などくれようか。    ――嗚呼、それでもどうか。  誰でもいい、何でもいい。どうか、私を見つけてください。  どんなくだらない路傍の小石でも、どうか見つけてください。存在して良いのだと肯定してください。人間として生きていて良いのだと、赦してください。その判決すら己に下せなくなってしまった私を、どうか……。  名も知らぬ誰かに、もしくは人理を超えた何かに対し、持ち得る言葉もなく祈る。それ以上耐えられなくなった私は、哀しみのうちに目を閉じた。  闇に意識を沈める直前、まだ肌寒い春の空に浮かぶ満月の光が、僅かに目蓋の隙間から差し込んだ気がした。
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