2.ユージン・ブレ博士

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「農作業は、ただ単に食料を生産するだけではなく、もっと大きな効果を人間に与えてくれます。作物を育てる作業は、心の中に安らぎを生みだします。キャンピングカーのように窮屈な居住棟だけでなく、広々としたドームの中で、他のクルーとお喋りしながら体を動かすことができるのは、大きな精神的リラックスをもたらしてくれるのです」  ブレ博士はこう言って、言葉を区切った。火星に到着してから、送信機材の調整やコロニーの取材、番組の打ち合わせに追われ、多忙なブレ博士とゆっくり話す時間が取れなかった。地球で知ることができる博士のプロフィールやマーズ・フロンティアの歴史は頭に叩き込んできたが、ブレ本人に関する事前取材はほとんどできないまま、本番を迎えていた。こういう時のインタビューはスリリングになる。何が飛び出すか、自分自身にも分からない。しかし、ここまでのブレ博士の話は、予想を遥かに上回る出来だ。博士は、感動的な脚本を読む一流のナレーターのように興味をそそる話し方をした。思わず聞き入ってしまった。だが、これでは博士のモノローグに終わってしまう。 「ところで、博士。『人間はパンのみで生きるにあらず』です。コロニーでのレジャーについて教えて下さい」  このあとのブレ博士のうれしそうな表情を、ケイは生涯忘れないだろう。博士は、欲しかったおもちゃを買ってもらった子供のような無邪気な笑顔を浮かべた。博士はこの火星での生活を心から楽しんでいる―。ケイはこの時、そう確信した。地球がほとんど見放したような遠く離れた居留地で、博士は心の底から人生を謳歌している。そこにかすかな羨望を感じた。ブレ博士は先ほどにも増して流暢に話し続けた。 「いい質問ですね。地球のみなさんは、火星コロニーの住人が難しい顔をして、ストイックに生きていると思っているかもしれません。確かに、最初はそういう部分が多かったでしょう。しかし、今は違います。スポーツに音楽、芸術。これらの分野でも、三十八人は素晴らしい業績を次々と残しています。これを業績と呼んでいいかどうかは歴史家が評価することになりますが…」  ブレ博士はテーブルの上のドリンクボトルに手をやり、水を一口飲んだ。 〈面白い話が聞けそうだ〉
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