22.ビークル発進

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 ケイはバギーに歩み寄り、鈍い銀色を放っているメタンのタンクにそっと触れてみた。表面はつるつるで、ひんやりとしていた。何層もの高断熱材で覆われているが、中には氷点下百六十二度の液体が詰まっているのだ。クリフォードはにやりと笑った。 「メタンは二台がそれぞれ四~五千㌔は走れるだけの量がある。水や酸素はおよそ一カ月分だ。途中で給油しなくてもいいくらいさ。最悪の場合は、太陽電池でのろのろと走ることもできる」 「曇りの日はどうするんだい」 「ケイもここに来て分かるだろう。火星に雨雲はない。砂嵐でも起こらない限り、太陽が隠れることはないさ」  バギーの隣にはキャメルが鎮座していた。 「こいつも優れものなんだろう」  キャメルの表面は、ざらざらとした灰色のフィルムで車体の隅々までが覆われている。 「そうさ。フラーレンの太陽電池だ。ほとんど隙間なく貼り付けてあるだろう。シリコン型なら、こうはいかない。発電効率は若干落ちるが、面積が広く取れるから、いざという時には頼れる存在さ。俺は『発電する皮膚』と呼んでいる」  クリフォードはそう言って、キャメルの車体を軽く叩いた。 「キャメルは電気モーターがあるけど、バギーはエンジン単独だろ。エンジンが壊れたらどうする?」 「そうなったら捨てるしかないな。でも、心配はないね。経路上に大きな障害物はない。燃費はバギーが一㍑八~十㌔、キャメルが十二~十五㌔を想定しているが、実際はそれより稼げるはずだ。特にキャメルは、うまく走れば二十近くいくと思うよ。なんたって『発電する皮膚』が快調なんでね」  クリフォードはウインクして見せた。表情を見る限り、クリフォードは意外とリラックスしているようだ。重要な任務を背負って、三週間近い旅に出る直前にはとても見えない。  午前六時を過ぎに、地上班でマグガイバーの補佐官を務めるジョルジュ・ピカールが駅に姿を見せた。与圧服を着用し、いつでも出発できる体勢だ。フランス出身のピカールはクリフォードと同年齢の三十三歳。ESA(欧州宇宙機関)で選抜され、四年前にこのコロニーにやって来た。パリ大学で工学博士を取得したMS(ミッション・スペシャリスト)だ。コロニーでは、生命維持装置や電気系統のメンテナンスを中心に、ハブの機械設備の設計、管理も担当している。 「おっと、ケイに先を越されるとはな。ジャーナリストってのは、朝も夜も関係ないのかい」  ピカールはスキンヘッドの頭をなでながら歩いてきた。 「そういうジョルジュも、もう与圧服を着ているじゃないか。これから三週間は与圧服を脱げないんだから、ちょっと準備が早過ぎるような気がするけどな」  クリフォードが冷やかし交じりに言った。 「昨日は寝付けなくてね。火星に出発する前の晩のような気分だったよ。取っておきのワインを空けたけど、余計に目が冴えてしまってね」 「ワインって…」 「そうさ、あれだよ。ブルゴーニュ産の二〇四〇年もの」 「あれは、地球に帰る時、火星最後の夜に飲むって決めていたんだろう」 「ああ。地球に帰るのはもう少し先のことになりそうなんでね。でも、このコロニーを離れる最後の晩には違いないだろう」  ピカールはそう言って、マリンブルーに塗られたバギーの車体をなでた。ピカールはバギーのパイロットを務めることになっている。 「そうか」  クリフォードは一言吐いた後、しばらくの間黙った。ケイも同じくピカールに掛ける言葉が見つからなかった。この任務に掛ける意気込みが短い会話から伝わってきたからだ。 「あのボトルを開けるなら、何で呼んでくれなかったんだよ」  思いついたように、クリフォードが口を開いた。ピカールは軽く笑いながら言った。 「誰が呼ぶもんか。クリフォードならあの芸術品を一気飲みしてしまうだろう。アメリカ人ってのは酒の飲み方を知らないからな」  ほんの一瞬、二人は互いの目を見つめあった後、大声で笑った。
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