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3.サラ・ブレ博士
「芸術といえば、サラ夫人はヴァイオリンの名手として有名ですね。サラ夫人を紹介いただけますか」
ブレ博士は公会堂の片隅に目をやり、「喜んで。サラ、こちらへ」と言った。
使い込まれたヴァイオリンと弓を左手に持ち、サラ・ブレが、即席スタジオに進んできた。サラは、MS(ミッション・スペシャリスト)が着用する黄色のつなぎに身を包んでいた。肩まで伸びたブロンドは、毛先が軽くカールしていて、三十九歳という年齢相応の落ち着きを感じさせた。身長は一㍍八十㌢近くあるだろう。かなり大柄だが、無骨な感じはなく、あくまでも優雅で品格を感じさせる物腰で自分の隣に腰掛けた。いたずらっぽく輝くアッシュグレーの瞳は少女のようであり、核融合炉をコントロールしている原子物理学者にはとても見えない。夫のユージン・ブレと同じく人を惹きつける何かを持っている。とても魅力的な女性だった。
「こんばんは。ミセス・ブレ。火星一のヴァイオリニストにお会いできて光栄です」
サラは微かに微笑んだ。
「ありがとうございます。私もお会いできてうれしいわ。ここにいると、地球から新しい仲間が来るのが常に楽しみなのです」と答えた。透き通るようなソプラノだった。
「このヴァイオリンは地球から持ってきたのですか」
「ええ。十年前に火星に来た時、当時のNASAのヒューズさんに直談判して、積み込んでもらいました。このヴァイオリンは、私が五歳の時からいつも一緒にある私の体の一部です。これが造られた時、人類はまだ飛行機すら発明していなかったのですよ。単に楽器というだけでなく、人類と私の歴史が刻まれた大事な道具ですから、『これを持っていけないなら火星には行きません』って、ごねました。ヒューズさんには随分と面倒をかけたと思います。でも、今思えば、このヴァイオリンは私個人や私の家族だけでなく、コロニーに住む人たちに、とても大切な役目を果たしてくれたと思います。無理言ってでも積み込んでもらって良かったですわ」
サラは愛おしそうにヴァイオリンをなでた。
「ヴァイオリンがコロニーにとって大事な役目を果たしたとおっしゃるのですか」
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