26.夜間走行

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「とっておきの薬があるんだ。インスタントだけどね」  ケイはバッグから魔法瓶を取り出した。 「コーヒーだよ。出発前に入れておいたんだ」  ジェニファーはケイの手元を見て、目を輝かせた。 「最高ね」  ジェニファーは助手席のケイに体を寄せた。ドクター・フィリップスが後部座席でごそごそしている。浅い睡眠から醒めたらしい。ケイはフィリップスにもコーヒーをごちそうした。三人は時間を掛けて、温かいコーヒーを味わった。熱い液体が胃袋に落ちていくたびに、体の芯に火が灯っていくような気がした。暗闇に包まれた火星の夜を走っていくうちに、出発当初の高揚感は粗方収まっていたが、コーヒーの温もりのお陰で、少しだけ元気が蘇ってきた。心なしか、ジェニファーとドクターも、さっきより生気に満ちた表情をしているように見えた。 「あと先になるけど、そろそろ食事の時間にしない?」  ステンレスの小さなマグカップをもてあそんでいたジェニファーが言った。 「賛成だね。コーヒーを飲んでほっとしたら、急に腹が減ってきたよ」  ドクターが答えた。  三人はディアナ・マディソン特製のチューブで食事を摂った。カロリー摂取用の赤いチューブには、ピーナッツバターのような甘ったるいペーストが入っていた。青いチューブは、トマトジュースのような味だった。実用的なだけの殺伐としたディナーだったが、ケイはこの時、珍しくチューブをおいしく感じた。ひと口飲み込むごとに内容物の栄養が体に染み込んでいく感覚に満足することができた。ケイはこのとき初めて、昼食を抜いていたことに気付いた。昼食時間帯は、宇宙放射線を避けるため、農場のエアロックに缶詰めだったし、その後の混乱の中では食事を摂ろうなどということを考えさえしなかった。 「不思議だけど、おいしく感じるわ。きっと昼ごはんを食べていなかったからだわ」  ジェニファーが言った。誰もが同じような午後を過ごしていたのだ。
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