3.サラ・ブレ博士

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「少し変に聞こえるかもしれませんね。でも、それは真実です。先ほどユージンが説明しましたが、火星で生きていくというのは、決して簡単なことではありません。地球では味わうことのできないプレッシャーやストレスにさらされることが多く、落ち込んで絶望感に苛まれることもあります。そうした精神状態は、本人だけでなく、運命共同体のコロニー全体にとって、好ましいことではありません。  目先の生活にばかり意識を集中すると、人間らしい生き方を時として忘れがちです。私たちは、人類の未来に新たな希望を切り拓くために、このフロンティアにやって来ました。そこで、生きる希望を失っては本末転倒です。厳しい環境の中だからこそ、人生を楽しく、豊かにする努力を惜しんではならないのです。私にとっては、音楽がその大きな助けになりました。ユージンには、それがスポーツであったように。  火星に来てから数年経ったある日、ハブの片隅に置きっぱなしになっていたヴァイオリンを取り出し、弾いてみました。まるで初めてヴァイオリンに触れたかのような新鮮な感動を覚えました。同時に、人間にとって、音楽や芸術がどれほど重要なものなのかを再認識しました。それ以来、ヴァイオリンの演奏が核融合炉の状態を確認するのと同じくらい、大切な日課となったのです。  重要な施設を守る仕事と趣味を同等に扱うことに違和感を覚える方もいるかもしれません。ですが、この星で生きていく上で、仕事と私生活を完全に分けることは不可能です。生きることそのものが仕事なのですから。人間らしく生きるために、ヴァイオリンを演奏し、精神を健康に保つことは、立派な仕事の一つなのです。  たまに公会堂で演奏会も開きます。私の演奏を楽しんでくれる仲間がいることも大きな励みになります。さらに言えば、私の音楽が、コロニーのみなさんに生きる希望を与える一助になっているのなら、それは最高の喜びですわ」  サラの言葉はまるで音楽のように心地良かった。
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