30.「カール」発進

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 翌日も昨日と同じ快晴だった。真夏の火星、しかも今バギーが走っている赤道近くの地域には、地球だと夏の極地帯くらいの日射量がある。与圧服越しに陽光の温かさを肌で感じることができるほどだ。昼が近付く頃には、与圧服の中が、春の陽だまりのようにポカポカしてきた。長時間運転を続けていると、車外の岩と砂ばかりの風景すら、時々ふと穏やかだと錯覚してしまうこともある。しかし、実際には気温は氷点下、湿度はほぼゼロ。厳しさに変わりはない。 「ジェニファーは何で火星に来たんだい」  ケイは出し抜けに聞いた。そういえば、この大事なことを、まだ聞いていなかった。 「そうねえ…」  彼女は何か言いかけ、口をつぐんだ。しばらくの間、黙った後、「ケイはどうなの。聞きたいわ」と逆に質問してきた。 「俺かい。それは簡単だよ。行けと言われたからさ。記者は俺の天職だと思ってた。NYPDでサツ回りをしていたときも、ワシントンDCで政治家を取材していたときも、外国の戦場を駆け回っていたときも、俺にこれ以上ふさわしい仕事はないと思っていた。自信満々で世界を飛び回っていた。でも、ある国の紛争を取材中にスパイ容疑を掛けられて逮捕された。拷問されて、死の恐怖を感じた時にふと思ったんだ。今までニュースにしてきた何百、何千という死について、俺は本当のことを分かっていたのかってね。何とか生きて解放されて、アメリカに戻った時に、俺は完全に自信を失って、人生に対して自棄になっていた。そんな時なんだよ、火星行きを言い渡されたのは」  ジェニファーは黙って俺の話を聞いている。 「火星に対する好奇心は人並み以上にあったさ。子供の頃は宇宙が好きで、星を眺めてはいろいろと想像を膨らませた。宇宙船や宇宙ステーション、月面基地では、人はどんな生活をしているんだろう。月や火星やもっと遠い星は、自分の目で見たら、どんな感じがするんだろう。いずれ行ってみたいと願ったこともある。でも、その時は宇宙とか火星とか、そういうことを真剣に考えられるような精神状態じゃなかった。局長が無理やり送り込んだようなもんだよ」 「で、火星はどう?」
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