30.「カール」発進

5/6

42人が本棚に入れています
本棚に追加
/295ページ
「それで、開発機構の試験を受けたのか」 「学会の雑誌で地質学者募集の広告を見て、『これだ』って思ったの。教授に言ったら、気が狂った人間を見るような目で見られたわ。でも、関係なかった。そういう環境から飛び出したかったんだから」 「それが火星に来た理由か…。ちょっと意外だな」 「意外って」 「君のことだから、何か明確な目的があって、ここに来たのかと思ってた。この星にいる人たちはみんなそうだろう?」 「私の理由は消極的ってこと?」 「そういう訳ではないけど、ブレ博士や的場博士のような人が多いと思う」 「私のような人間は少数派かもしれない。だけど、理由はともかく、この星に来て良かったと心底思っているわ。ここはエキサティングな特別な場所よ。来た動機はいろいろ複雑だったけど、ここに残っている訳は、はっきりしているわ」 「残る理由?」 「私は今年の枠で、地球に帰還することもできたのよ。そう、ケイが乗ってきたエンタープライズでね。でも、断った。こんな楽しくて刺激的な所から、帰れる訳ないでしょう」 「それが残った理由?」 「この星では最先端のテクノロジーに囲まれているけど、生活のスタイルはものすごくシンプルで原始的よ。呼吸をして、食べて、笑って、セックスして、そんなことがとても大事なことで、それを維持するために、自分の知識や技術を全部投げ打って働くの。地球だったらひどく不自由なことでしょうけど、ここではすごく自然で刺激的なことだわ。今の地球社会では、そんな刺激を得るのはとても難しいと思わない? ちょっと油断すると、自分が何をやっているのか、何のために生きているのかを見失ってしまう」 「火星には仕事で来たけど、仕事をしているという感じはしない。仕事の意味というか、仕事から得られる充足感の質が変わった気がするよ」 「そうでしょう? ここに来て四年、私はものの見方が随分変わったわ。でも、自分を見失ったことがほとんどないわ。忙し過ぎず、暇過ぎず、自分らしく生きられる気がするのよ」 「それは何となく分かる。これまで深く考えたことはなかったけど…」 「地球は至れり尽くせりの便利なシステムが生活の隅々にまで浸透したお蔭で、人間は逆に不自由で、無気力で、優柔不断になってしまったんだわ。チャレンジを忘れ、今あるシステムの拡大再生産に満足している。この星には、誇れるべき過去はほとんどないけど、未来があるのよ。しかも、それを自分たちの手で作れるのよ。こんな素敵な場所、他にあると思う?」
/295ページ

最初のコメントを投稿しよう!

42人が本棚に入れています
本棚に追加