30.「カール」発進

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 二時間ほど走った頃、ジェニファーが出し抜けに言った。 「そろそろね。『カール』を見ない?」  ケイはバギーを減速し、一八〇度方向を転換して停車した。 「そうだった、打ち上げが早まったんだったね」 「予定時間まであと五分くらいよ」  今回の事故で、クリフォードとシェーファーという優秀なクルーがオリンポスに行けないことになった。工程スケジュールを見直した結果、帰還船班の出発を早め、作業に余裕を持たせることが必要になったのだ。 「二人の旅も悪くないけど、帰還船ツアーも経験してみたかったな」  ジェニファーは微笑した。 「すっかり火星の住人になったわね。ここの生活を楽しんでいる人間なら、絶対に帰還船班に立候補しないわ。だって、何の苦労もなく目的地に着いちゃったら、面白くないもの。私は地上班に鞍替えするチャンスをずっと狙っていたのよ」 「そういう台詞をもっともだと感じるようになってきたよ。ところで、方向はこっちで良かったかな」  ケイはそう言いながら、足元のグローブ・ボックスからビデオカメラを取り出し、西の方角に向けて構えた。ジェニファーは俺の横顔を眺めながら、「記者としては、ちょっと遠回りし過ぎたかもしれないけどね」と言った。 「そうだな。現場への一番乗りも魅力的だったんだけど、ジェニファーの誘いは断れなかった」 「でも、来て良かったでしょ?」 「ああ、そう…」  ケイが言いかけた時、突然、西の地平線から、一筋の白い光がほぼ垂直に立ち上がった。露出オートのカメラの液晶ファインダーが一瞬、暗くなったように感じられた。メタン・酸素推進エンジンの発する輝きはそのくらい激しかった。カールは赤茶けた火星の空をまばゆい白色の閃光で切り裂き、ゆっくりと真上に昇って行った。ケイはファインダー越しに、その軌跡を追った。ジェニファーは横で、顔を真上に向け、上空を見つめていた。  カールには、当初、船長のジム・マディソンと金属加工技術者のクリフ・リチャーズのほか、ケイとジェニファーの計四人が乗る予定だった。ケイたち二人の代わりに、バックアップメンバーだったマーカス・アンドレッティとミヒャエル・バラックの二人が乗ることになった。  アンドレッティはNASA出身のBS(ビルディング・スペシャリスト)で、ビークルの操縦技術に定評があった。バラックは、事故が起きた時、中央管制室にいたブレの助手のMS(ミッション・スペシャリスト)だ。専門は化学工学で、炭素繊維などの薄膜素材の製法を研究している。いずれも二十代後半と若く、独身だ。  カールはものの数分で、火星の薄っぺらな大気圏を突き抜け、低周回軌道に入った。このあと、高度を徐々に下げつつ火星を十数周し、大気圏に再突入するのだ。オリンポスの麓に着陸するのは約七時間後、遅くとも明日の朝には地表で活動を開始することになる。 「もう後戻りはできないわね」  顔を上に向けたまま、ジェニファーがつぶやいた。そうなのだ、帰還船班は途中でミッションを中止できない。オリンポス・コロニーの建設は今、ポイント・オブ・ノー・リターンを越えたのだ。  地表から頭上に向かって真っすぐに伸びたカールの排気雲は、上空の風で拡散し、赤い空に鮮やかな幾何学模様を描き出していた。
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