33.赤い嵐

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 キャメルに乗る六人全員が、外の光景に打ちのめされていた。不安やプレッシャーへの耐性が人並み外れて強く、三日間に及ぶ雷の攻撃にもじっと耐えたが、赤い嵐の迫力は六人から再び言葉を奪った。空間全てに充満した砂と塵。上も下も右も左もほとんど変わらない霧に包まれているようだ。時折自分のいる空間を見失ってしまう不気味な感覚に背筋が凍りつく。残りの酸素や水素の量が気になるが、ペースは容易に上げられない。資源が尽きた時、ここにいる人間は五分と生きられない。ケイは、クルーがしょっちゅうコンソールのメタンや水素の計器に目をやっていることに気付いた。エンジンを回し始めてから、心なしかメタンや水素の消費ペースが早くなった気がする。  ケイにはもう一つの心配事があった。カメラのバッテリーだ。アダムから太陽電池の充電器を借りてきたが、これだけ光が弱いと、レンズで集光力を高めたタイプでも、ほとんど発電していない。丸一日かけても、三時間用のバッテリー一本も充電できないような状態だ。いつものペースで撮り続けたら、あと数日で、バッテリーが底を尽く。オリンポスへの旅はクライマックスに差し掛かっている。決定的瞬間はこれから起きるかもしれない。ケイは、バッテリーを節約することに決め、ヘルメットカメラの待機スイッチを切り、ハンディカメラを待機モードにした。これでかなりの電力が節約できる。突発的な出来事を収めるのは諦めることにした。  嵐の中の重苦しい一日は、前進した手応えがないまま、あっという間に過ぎ去った。GPSを頼りにルートを慎重に選び、交代で休みなく走り続けたが、渓谷や丘陵、断層を何度も迂回したので、オリンポスには直線距離にしてわずか三十㌔しか近付けなかった。遅い分だけ長時間走りたいのは山々だったが、日没が近付くと、辺りは急速に明るさを失っていった。ただでさえ視界がきかない嵐の中。夜間走行はさらに危険だ。キャメルは慌てて今夜のビバーク地点を探さなければならなかった。 「適当な場所が見当たらないわ。GPSの調子が今イチなの」  GPSとマップを交互にみていたジェニファーが言った。彼女は二時間ほど前から、助手席に座り、ナビゲーターを務めている。 「洞窟がありそうな場所はないか。谷とか段丘とか…。それが無理なら、クレーターでも」  ピカールが二列目の座席から、GPS画面を覗き込むように言った。ドライバーはバーグマンだ。今日二度目の操縦だ。 「ここから北に二十㌔行くと、地溝帯があるけど…」 「けど…。何か問題でもあるのか」 「深いわ。深さが百㍍以上ある。全長は三十㌔以上あるわ」 「多分、『コバヤシ谷』とは別の海溝の跡だろう。この時間にそこまで行って、下まで降りるのは無理だ。別の場所はないか」 「東南十二㌔の地点に小さなクレーターがあるわ。かなり古そうだけど」 「風を避けられそうか」 「分からない。でも半径五十㌔以内に特異な地形はそれくらいしか見当たらないわ」  結局、今夜のビバーク先は、名前も付いていない、その小さなクレーターに決まった。二時間弱をかけて、クレーターと目される場所に辿り着いた頃に、辺りは真っ暗闇に包まれていた。クレーターの全景は当然見渡せない。キャメルは東からの風を避けるため、クレーターの西側の縁にへばりつくように停車した。エンジンを停めると、風切音や細かな砂塵がキャビンの風防をこする音がした。クレーターの外縁部は、余り有効な風除けにはなっていないようだ。  翌朝、六人が起床した頃に、ビークルはタイヤのほぼ全部が砂に埋まっていた。車高を高くしていたので、キャビンまでは埋まらなかったが、バギーならキャビンすら埋没していただろう。砂が堆積したのも無理はなかった。夜明け直後の薄暗がりの中、目を凝らして確認してみると、クレーターの大半は浸食されていて、単なる平地といってもいい地形だった。 「ここの地図はいつ作られたんだ。これじゃクレーターとは言えないぞ」  辺りを見回しながらピカールが愚痴をこぼした。 「NASAのマーズ・リコネサンス・オービターの画像を基に作ったマップよ」  ジェニファーが答えた。 「半世紀も前じゃないか」。 「この辺りは地形的に安定した場所だから、余り熱心に調べられてはいないのよ。地図は基本的に四十数年前に作られてから、ほとんど改訂されていないようね。この星には、そういう場所がたくさんあるわ」  ピカールは大きなため息をついた。 「予算不足で観測衛星の数が減らされたからな」 「万一に備えて、しっかりルートを設定しておくべきだった?」 「地図が不正確なら、それも無意味だろう。この砂嵐の中では、たったひと晩でも地形は大きく変化する。これから古い地図は余り信用しない方がいいかもしれないな」 「ちょっと愚痴っぽくなったわね」  ピカールはそれきり、押し黙った。ピカールはこのミッションの責任者として、大きなプレッシャーと戦っているのだ。気まずい沈黙を破ったのは、バーグマンだった。 「それじゃ、そろそろ出発しましょうか。幸いエンジンは正常に動いている。少なくとも前には進める」  バーグマンは今日もドライバーを務める気だ。昨日一日で計六時間以上も走り続けたのに、何ともタフな男だ。キャメルは身震いしてエンジンを起動し、ゆっくりと前に進み始めた。人間が不安に押し潰されそうになる嵐の中でも、このビークルはちゃんと動いている。何とも頼もしいマシンだ。 「東北東に進路を取って。数十㌔以内には谷もクレーターもないはずよ」  ナビゲーターはジェニファーだ。昨日と同じく、助手席に陣取っている。 「了解。今日は飛ばすぞ」  キャメルはどんなに頑張っても、「飛ばす」というほどのスピードは出ない。暗いムードを吹き払うために、バーグマンが慣れないジョークを飛ばしたのだ。これには車内のみんなも思わず吹き出した。
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