36.彷徨

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 積み下ろし作業をしながら、ケイは火星の嵐を初めて自分の体で直に体感した。風速が百㍍前後あることは、キャメルの車載風速計で分かっていたが、車を降りてみるまで、この数字がどのくらいの威力を持つものかは、今ひとつピンとこなかった。  車外に出てまず気付いたのは、大小さまざまな音だった。風速百㍍を超す嵐の風圧は、地球だと十㍍台くらいにしか感じられなかったが、高速の風切り音と嵐特有の重低音の地響きは、重苦しい恐怖感をもよおさせた。ヘルメットの強化プラスチック製シールドには、細かな砂粒が絶え間なく当たり、チリチリと神経を逆撫でするような小さな音を立てていた。一つ一つはささやくように小さな音だが、数が半端ではなかった。重なり合った音は、一瞬も途切れることなく、しつこく耳にまとわりついてきた。ケイは風圧の意外な弱さに拍子抜けしたが、空気全体に充満した重圧感に圧倒された。与圧服の中で、幾分高めの濃度の酸素を吸っているのに、息苦しささえ感じた。 「見ているだけで窒息しそうだわ。初めてよ、こんな凄い嵐の中を歩くのは」  隣で積み込み作業をしていたジェニファーが、盛んにシールドをグローブで拭っている。 「こんな強行軍に誘い出すなんて、ケイも随分タフになったものね」  ケイはジェニファー独特の誉め言葉に、微笑で答えた。 「でも、これしか方法がない」 「そうね。だけど、火星ジャーナリストが初めて殉職する確率も低くはないわよ」 「黙ってキャメルに乗って、共倒れになるよりは、確率は上がると信じたいね。日没までに、何とか嵐を避けられるキャンプ地に辿り着くしかないよ」 「何だか、私が言う台詞みたいね」 「このミッションに参加して、君たち火星人が楽観的でいられる理由が分かってきたような気がする。こんな状況になったら、物事を楽観的に考えないと、気がおかしくなってしまいそうだ」  シールド越しにジェニファーが笑ったのが分かった。 「それが理解できれば、火星居住の一次試験は合格よ」  バーグマン、マクグレイスとの別れは、あっけないほど簡単だった。 「必ず迎えに来る。幸運を」  バーグマンはキャメルの外に佇む四人に向かって、無線でこれだけ伝えると、メタンエンジンをふかして、ビークルを発進させた。視界が百㍍ほどしかないので、キャメルの不格好なシルエットは、すぐに赤い霧の中に消えた。  残された四人は感傷にひたる間もなく、すぐに、南のキャンプ予定地へ向けて出発した。ジョルジュ・ピカールとキム・デヒョンが先頭に立ち、強化繊維のザイルでメタンのボンベを組んだ橇を引き、ケイとジェニファーが後ろから押した。ジェニファーが携帯用のGPS機器を確認しながら、進路を指示した。キャメルから下ろした荷物は、ざっと計算すると全部で五百㌔を超えていたが、橇は思いのほか軽かった。 「下り坂で助かったな。登りだったら、こうはいかない」  ピカールは、早くも息を弾ませている。コロニーを出発してから、ほとんどの時間をビークルの中で過ごしてきたので、筋肉や心肺の機能がかなり低下していたのだ。ケイも動き出してから、ものの数分で太ももやふくらはぎ、そして何より心肺が悲鳴を上げ始めた。
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