47.帰還命令

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 ふと気付くと、外には夕暮れが迫っていた。太陽は地平線の下に姿を消し、上空には火星特有の真っ青な夕焼けが広がっていた。地表近くの赤い大気が、上空に向かうに従って徐々に青さを増している。そのグラデーションは絶妙で、神々しくもあった。  その時、突然、脳裏に、サラ・ブレのヴァイオリンの音色が蘇った。「青い夕焼け」。火星到着後、マーズ・フロンティアの公会堂で収録した初めてのインタビューで、打ち合わせにない要請を快く受けて、サラが弾いてくれた曲だ。そのあとも何度か公会堂の演奏会で聴いた。ケイは自分のコンピューターから、インタビューの映像を検索し、再生した。  液晶画面の小さな窓に現れたサラの姿をとても懐かしく感じた。わずか半年ほど前のことなのに、遥か昔のように思えた。 <私たちは、人類の未来に新たな希望を切り拓くために、このフロンティアにやって来ました。そこで、生きる希望を失っては本末転倒です>  サラはそう言って、「青い夕焼け」を弾いた。空調音以外、ほとんど音がしないカールの中で心を閉じていたケイにとって、サラの奏でる鮮やかな旋律はまぶし過ぎた。耳に飛び込んでくる音の一つ一つは、火星の大地のように冷たく渇き切った心の襞に温かく染み込んできた。  ケイは軽い眩暈に襲われた。ジェニファーの死という耐え難い苦痛から逃げるため、外界を拒絶し続けてきたが、事故以来、初めて人間的なものに触れた気がした。  気が付くと、サラの演奏はとっくに終わっていた。画面の中のサラは核融合発電について説明していた。
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