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衝撃は――来なかった。
「……?」
恐る恐る目を開ける。
黄泉返りの怪異の錐による攻撃は、僕らに届く寸での所で、時が停まったかのように静止していたのだ。
よく見ると、錐の先端部分を受け止めるように、護符が一枚浮いていた。
「ふぅ。若い頃の姿で足が速くて良かったわ」
「……婆……ちゃん?」
「怪異の妨害が夢路さん達に集中したおかげで依子さん達に防壁を張っておく必要も無くなったから、ね」
……そうか。
婆ちゃんが身動きできなかったのは怪異の攻撃がこの場の全員に及ぶ可能性があってそれから護る必要があったからだ。
剥き出しの霊核から蒼汰君の魂魄を引きずり出そうとし始めた段階で標的はこっちに集中する事になった事で、婆ちゃんが自由に動けるようになったのか。
「……って婆ちゃん! 悠長な事言ってる場合じゃないよ!」
「あら、どうして?」
「だって怪異が……」
「大丈夫」
婆ちゃんは小さく微笑むと、視線を怪異の霊核の方へ――あれ?
つられて視線を霊核の方へ向けると、さっきまでドロドロに融解しかけていた赫い霊核が、灰色に変わってカラカラに乾いた何かに変容していた。
「夢路さん達が蒼汰君の魂魄を引きずり出した事で、もうここでの力を失っているわ」
ザラザラと、砂が崩れるような音がする。
「怪異が……」
日野さんが何かに気付く。
あれほど巨大に膨れ上がっていた怪異の身体が、末端から崩壊を始めていた。
「……これって……倒した……って事?」
僕が聞くと、婆ちゃんは頬に人差し指を当てて「うーん」と眉根を寄せる。
「それは半分正解だけれど、半分不正解ね」
「……?」
「死者の黄泉返りと言うのは、ずっと昔から私達の中に根付いている怪異譚だから。この土地でこの時代に顕現したものの力を霧散させただけ、と言うのが本当の所かしら」
……そうか。
もとになる怪談や伝承が途絶えない限り、別の場所、別の形で顕現する事もあるって言うことなのか。
「でも、まあ。これで蒼汰君の魂魄は正しく向こう側へ行く事ができるようになるわね」
婆ちゃんはしゃがみこんで、蒼汰君の額を優しく撫でた。
「――……」
すると程なくして、目を閉じたままぐったりしていた蒼汰君が、ゆっくりと目を開けた。
「蒼汰君……!」
依子さんが思わず声を上げて、蒼汰君の身体を抱きしめた。
「ごめんなさい……! ずっと……ずっと待たせちゃった……!」
依子さんの声は震えていた。
蒼汰君はしばらくぼうっとした表情で依子さんの顔を眺めていたけれど、少しずつその目に光が戻って来る。
「……ああ……よりちゃんかぁ……誰かと思ったよ。あはは」
その口ぶりからすると、蒼汰君にはここ最近何度も会っていた記憶が無いように思われる。
やっぱり僕らがこの件に関わってから会っていたソウタ君は、黄泉返りの怪異が蒼汰君の魂魄を霊核にした事で生み出されたもので、今目の前に居るのが本来の蒼汰君なのだろう。
「……でも蒼汰君、今の依子さんを知らないならどうしてわかるんだろう?」
「魂魄の在り方そのものを感じ取っているのでしょうね」
死者となった純粋な魂魄だからこそ認識できる、と言うものなのかもしれない。
「蒼汰君……私、あなたが助けてくれたから……今、お母さんになったのよ」
「そっかぁ……。なら、よかった」
「ごめんなさい……本当に……」
「……『ごめんなさい』は、悪い事をした時にいう事だよ。よりちゃんがお母さんやってるのは、悪い事じゃないでしょ?」
「――…………」
「よりちゃんがお母さんやってて幸せなら、悪い事じゃないんだよ」
「……そうね」
依子さんは蒼汰君を抱きしめる腕の力を強くして。
一度大きく深呼吸をして。
万感の想いを込めて、その言葉を口にした。
「――ありがとう」
その言葉を聞き終えると、蒼汰君は満足そうに微笑んで。
そのまま、風に溶けて消えて行った。
依子さんの嗚咽だけが、しばらく僕達の耳に響いていた。
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