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(5)
書斎へ戻った依子さんが持ってきたのは、一冊の本だった。
「……随分、分厚い本ですね」
ちょっとした辞典みたいなものが出てきてギョッとする僕を見て、依子さんはニヤリとする。
「五百ページ以上あるからね」
「五百……」
参考書でも中々見ない量である。
依子さんはそれを僕の目の前にドサッと置いた。
「古典落語の原点とその解説本よ。これでもまだほんの一部だけど」
「これで一部……よくこんな専門書持ってますね」
「おっと夢路君、引篭りがちとは言え怪異小説家を舐めてもらっちゃあ困るよ」
「す、すみません」
ジト目の依子さんに人差し指でビシビシと額を突かれてしまった。
依子さんはビールを開け、スルメを皿に出してパクつきはじめる。
「怪談の類と言うものは、地方の伝承として単体で残っているものもあるけれど……むぐ。よりエンタメ性の高いものなんかは人々の間で広く伝えられ、それらの中には落語や芝居の演目として大衆文化に溶け込んでいったものも少なくないの。怪異小説をやる上で、古典落語の資料と言うものは切っても切れないものがあるんだよ」
「それって、怪異現象そのものが人間社会の間で認知されているものほど存在する力が強い……って言う話と関係あるやつですか?」
「お、詳しいじゃない。洋子さんに教わってるの?」
「あ、いえ……サクラからです。婆ちゃんからは、そっち方面の知識は殆ど教えてもらっていないので」
「あらそうなの? そりゃ意外だね。……まあでも、サクラさんも言っていたでしょ? 昔芝居小屋かどこかで見聞きした覚えがあるって」
「ああ、確かにそんな話してましたね……」
「……あったのよ、一つ。そういう話が」
「そういう話?」
分厚いその本の中、依子さんは付箋の貼ってあるページを開いて僕の方へ向けて見せた。
「――日も暮れて辺りに人も無し。浅草弁天堂の打ち出だす鐘の音が韻に籠って物凄く“ぼぉぅん……”と鳴った。すると葦の間から烏が一羽――」
「そう。ここに出てくるのが、今は鳴らしていない弁天堂の夕刻の鐘よ」
「……へぇ、意外な所に歴史的な資料みたいな話が残ってるんですね」
「この話の名前は『野晒し』と言ってね。河川敷で見つけた髑髏を弔ったら死人が黄泉帰って……みたいな事になって行く話なの。この話そのものは途中からは滑稽噺――コメディっぽくなっていくんだけど……大衆文化としてこの話が成立・浸透していく中で、弁天堂の暮六つ時の鐘の音と人気のない薄暗い河川敷と言うものは怪異現象の扉を開く鍵たりえた……と言う事かもしれないわね」
「この話で黄泉帰りをする人物って言うのがソウタ君みたいな子どもなんですか?」
「ん? ああいやいや、野晒しの中では若い女の幽霊だよ」
「そのままトレースしているわけではないんですね」
以前、架空の怪談が具現化する怪異と言うものとは遭遇した事がある。
エピソードの設定ごと再現したそれらとはまた少し異なるようだ。
仮に、その話になぞらえた怪異現象がソウタ君の出現に多かれ少なかれ影響を及ぼしているとして。
そこにはまた別の、彼自身の抱えている何らかの事情があるような気がする。
やっぱり、どうにかしてソウタ君と言う人物のパーソナリティに迫る必要があるように思われた。
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