三章  欠けたもの

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(9)  週が明けて。  放課後、問題集を買いに駅前の書店を訪れていた僕と日野さんに、背後から声がかかった。 「二人ともお久しぶりです」  振り向くと、立っていたのは見知った顔だった。 「市ノ瀬さん」  眼鏡の似合う文学少女然とした柔らかな雰囲気を纏う子で、市ノ瀬由紀と言う他校に通う同学年の子である。  ここからほど近い予備校の生徒であり、春先にその予備校で起きたとある怪異事件を通して知り合った。  学業は優秀、運動神経は階段を三階分駆け上がるだけで息も絶え絶えになるほど壊滅的と言う中々尖った能力の人物で、雑学方面もよくわからない豆知識からサブカルまで意外と造詣が深い。  特異な家庭の事情と持って生まれた霊的な素養によって不安定になっていた頃の影は、最近はもうすっかりなくなったようだ。 「鈴音ちゃん、あれからどうですか? 祥子ちゃんから時々話は聞いているので心配はしているわけではないんですけれど」  市ノ瀬さんの言う『祥子ちゃん』と言うのは鈴音大好き御島さんの下の名前である。  彼女達は春先の予備校で起きた事件を通しての友人なので、我が家周辺の怪異事情と言うものも概ね理解してくれている。  彼女が鈴音の事を何かと気にかけてくれているのはそう言った背景もあっての事だ。 「うん、おかげさまでね。大丈夫どころか少しおませなお姉ちゃんまで増えて賑やかなもんだよ」 「ああ、ウスツキちゃん……でしたっけ。私はまだそっちの子とは会ったことないんですけど、早く会ってみたいですね」 「あんまり外出したがらないけど、ウチはいつでも構わないよ。鈴音も喜ぶと思うし」 「はい、是非」  ふわりとした笑みで、市ノ瀬さんは言った。 「ところで、お二人は参考書か何かを?」 「え? ああ、まあ、問題集を買いに。あとは――息抜き用の小説でも買おうかなと思って」 「あら、何か面白いの出たりしました?」 「ああいや、新刊じゃないんだけど……凪野紙縒って先生の本、読んでみようかなって――」  ガシッと。  話の途中で市ノ瀬さんに肩を掴まれた。 「――ふふ」 「え」 「ふふふ。朝霧さん……ようこそウェルカムいらっしゃいっませ凪野紙縒ワールドへ……!」 「え……あの、市ノ瀬さん……?」  いきなり雰囲気の変わった市ノ瀬さんに動揺を隠せない。  これは……これはまさか……。 「どれからお薦めしましょうか……やはりコミカライズもされた『丑の刻探偵事務所』シリーズ、いやいや粗削りな時期の一冊ながらもやはりデビュー作『逢魔が時の境界』を収録した『違層世界』を履修せずして紙縒ファンの道へ入ったとは言えませんああでもしかしちょっと尖っているけど私個人的には『黎明の刃』も――うふ、ふふふ」  ……。  いかん。  思い切り踏んではいけないものを踏み抜いた様である。 「……」  渋い顔で日野さんの方を見ると、思い切り合掌されてしまった。  それから小一時間、僕は思わぬところに居た過激派ファンによる夕凪紙縒作品レクチャーを受けることとなったのである。
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