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「では行こうか、ワトソン君」
パタンと調書を閉じた雨龍がすっくと立ち上がる。
「和戸村です。行くって何処にですか?」
「決まっているだろう。事件の起こった現場にだ」
見上げて問うた和戸村に雨龍は事も無げに告げると、さっさと歩き出す。
「急ぎたまえワトソン君。時間は有限なのだ」
「和戸村ですってば! ちょ、待ってください! 雨龍探偵! 雨龍探偵ー!」
くるくるとステッキを回して颯爽と歩く雨龍を和戸村が慌てて追う。その背中にベテラン刑事の「頑張れよー」という声が投げられた。
「大丈夫かね、アレで」
幸か不幸か、続いた声はバタバタという足音に掻き消されて和戸村には届かなかった。
「調書によれば第一の現場は米架通り3-Cだったね」
「あ、はい……え? いつの間に覚書を?」
警察署を出た雨龍は正確に現場に向かって歩き出していたが、和戸村の言葉にぴたりと足を止めて首だけを後ろに捻じ曲げた。その顔は呆れと侮蔑を隠そうともしていない。
「覚書というのはだね、君。知識の欠片を拾えない凡庸な愚者にこそ必要な物なのだよ。僕の灰色の脳細胞は抜群の記憶力を誇る。謂わば僕の記憶こそが覚書なのだ。君の様な凡人と一緒にしないでもらいたいね」
トントン、とソフト帽を指先で叩く雨龍に和戸村が半眼になる。
「……それはそれはお見逸れしました」
「分かれば宜しい。では行くぞ、ワトソン君」
「だから和戸村ですってば!」
捻じ曲げていた首を戻し、再び歩き出す雨龍の背中に内心で思いっきり舌を出す和戸村であった。
ふいに雨龍がパチンと指を鳴らした。
「雨龍探偵、何ですか今の?」
「さぁてね」
重ねて問おうとした和戸村の背中に軽い衝撃があった。
「おっと……やい、兄さん。そんな道の真ん中で突っ立ってちゃ邪魔でしょうがねぇぜ」
「え? あ、すまない」
振り返ると薄汚れて擦り切れたハンチング帽が目に入った。
「ごめんよ、坊や」
「……ったく、気をつけろよな」
舌打ちを残して雑踏に紛れる小柄な後ろ姿に「やれやれ」と和戸村は頭を掻いた。
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